★「竹島」は日本固有の領土です

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韓国は日本との友好の為に返還するべき

投稿者: hatiwandiver81diver131 投稿日時: 2008/05/02 19:47 投稿番号: [8760 / 9207]


    韓国は、日本との友好を、考えて欲しいです。    だから、そのためには、竹島を、日本に返すべきです。

アンヨンポク(安龍福)証言の信憑性

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/05/02 19:44 投稿番号: [8759 / 9207]
http://chinachips.fc2web.com/repo1/015065.html
アンヨンポク(安龍福)証言の信憑性検証

日本側が竹島の領有権を主張する根拠はどこにあるのか?
それは、安龍福の証言よりも三十年程前に成立した、出雲藩士の斎藤豊仙が、藩命によって著した「陰州視聴合記」です。斎藤豊仙はその「国代記」の中で松島と鬱陵島を日本の「西北限」の領土として明記しています。これを根拠に明治政府は1905年、それまで松島と呼ばれていた無人島を「竹島」と命名し、島根県に編入したのです。

隠州視聴合記は 粛宗実録より古いのだ

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/05/02 16:01 投稿番号: [8758 / 9207]
1667年の隠州視聴合記は   粛宗実録による粛宗時代(在位1674年〜1720年)より古いのです   朝鮮は粛宗実録を領有根拠にしているそうだが、
その内容は1674年〜1720年に起きた事を記録した物です、隠州視聴合記は竹島、松島を含めて日本の西北国境と定めたのですから、これは強力な江戸時代における松島領有根拠ですね、さらに朝鮮粛宗実録より隠州視聴合記は古いのです。

粛宗時代(在位1674年〜1720年)

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/05/02 14:11 投稿番号: [8757 / 9207]
http://chinachips.fc2web.com/repo1/015065.html
引用

韓国政府が「歴史上からみても我が国の領土」として主張できる根拠は「粛宗実録」=朝鮮王朝の粛宗時代(在位1674年〜1720年)の出来事を記録したもの)によるものです。

会津屋一件1836年 領有の有力な根拠

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/05/01 22:32 投稿番号: [8756 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm133.html#No.966
引用
もし、かつての外務省がいうように、大谷・村川両家が幕府から「松島渡海免許」を受けていたのなら、幕府は竹島=独島に領土意識をもっていたことになり、領有の有力な根拠になります。
また 1667年当時、隠岐国を管轄する雲州松江藩の命により編纂された『隠州視聴合紀』に竹島・松島が日本の西北の限界であると書かれていたのなら、これも竹島=独島に対する領有の強力な根拠になります。


・会津屋八右衛門、天保7年(1836年)一件・・松島渡海の名目でご禁制の磯竹島へ渡り・・と   幕府よりお咎めを受け、幕府により処刑された会津屋八右衛門、ここで幕府は松島に自国領の領土意識がありますね、   これは領有の有力な根拠になります。

よち誌、二島は蔚珍縣から歴々と望み見

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/05/01 19:50 投稿番号: [8755 / 9207]
よち誌、   蔚珍縣
于山島欝陵島:県の真東の海中にあり。ときに武陵、ときに羽陵ともいう。島は百里四方で   この二島天気が清明であれば、山やなぎさを   歴々と望み見ることができる。・・とある   東海よち誌には「お互いの距離は遠くなく」の記載はなかった、よって   よち誌からは于山島、欝陵島の二島は蔚珍縣から歴々と望み見ることができた事に成ります。

韓国 島の位置 歪曲認める

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/30 17:25 投稿番号: [8754 / 9207]
竹島領有権アピールの韓国   島の位置   歪曲認める
2007.5.5 08:00

博物館   レリーフ撤去へ

独島博物館の入り口に展示されているレリーフ。鬱陵島の西隣にあるはずの于山島が、竹島の位置に
  韓国が実効支配している日本固有の領土、竹島(韓国名・独島)を、「韓国領」だとアピールするため韓国政府が、朝鮮半島沖にある鬱陵島に建設した「独島博物館」に展示されているレリーフについて、同館は史料と食い違っていることを認め、近く撤去することを明らかにした。レリーフは韓国の古地図をもとに、竹島が韓国領だと視覚的にわかりやすく示すために製作された同館のシンボル的展示だが、以前から日本人研究者らが「悪質な史実の歪曲(わいきょく)だ」と指摘していた。

「八道総図」を忠実に再現した独島博物館前の石碑に刻まれた地図(部分)。于山島は鬱陵島の西にある
  レリーフは、朝鮮半島と鬱陵島、そして韓国が「竹島を指す」と主張している「于山島」などを単純化して描いたもので、1481年に完成した朝鮮の地誌『東国輿(よ)地勝覧』に所収されている古地図「八道総図」をもとに製作したという。1997年8月の開館当初から入り口近くに展示されている。
   ところが、地図では鬱陵島のすぐ西隣に于山島が描かれているのに対し、レリーフでは竹島の位置に当たる鬱陵島の東側に于山島を配置。さらに、鬱陵島から竹島までの実際の距離に近い数字(87・4キロ)を鬱陵−于山島の距離として表示しており、「于山島=竹島」を印象づける展示となっている。

  韓国側は、「八道総図」が、日本側が竹島領有権主張の論拠とする『隠州視聴合記』(1667年)より200年近く古いことから、この図を領有権主張のよりどころにしている。同館のパンフレットの表紙にもこの地図を印刷。同館近くの石碑などにも同じ地図が刻まれている。

  産経新聞の取材に対し、同館の研究員(30)は、位置が違う理由は「来館者がより見やすいように」と説明したが、「日本の研究者からクレームが多く、紛争の火種になるので近く撤去する予定だ。年内には別の展示に取り換える」と語り、レリーフを撤去する方針を明らかにした。

  同館が事実上「誤り」を認めたのは初めてで、今後どう対応するかが注目される。

  于山島は、実際には鬱陵島の東沖2・2キロにある「竹嶼(ちくしょ)」との見方が定説。文献によれば、「八道総図」が描かれたころは、韓国側は鬱陵島と于山島の区別がつかず、違う島かどうかの認識もない状態だった。

  ■竹島問題に詳しい下條正男・拓殖大教授の話「于山島が竹嶼であることは日本側がずっと主張し、レリーフの誤りも指摘してきたが、これまで相手にもされなかった。博物館という公的機関による虚偽展示の影響は計り知れず、本当に取り換えるなら正しく取り換えるかが興味深い」

【用語解説】于山島

  古地図に記載されている朝鮮半島東沖の島の名称で、現在の地名にはない。1481年に編纂(へんさん)された朝鮮の地誌によると、鬱陵島はかつて于山国(うさんこく)と称し、512年に新羅に帰属後、高麗、朝鮮へと引き継がれた。韓国側は于山島は、現在の竹島のことで、同年から韓国領であると主張。一方、日本側は竹嶼が有力としている。18世紀に描かれたとされる韓国の古地図には「所謂于山島   海長竹田」とあり、于山島には竹が生えていると記載。しかし、竹島は岩礁の島で、竹が生える場所はない。

観音島は100年前の地図では鼠項島

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/29 19:31 投稿番号: [8753 / 9207]
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1744816

100年前に鬱陵島の事を日本人が調べた地図です。

現在の観音島は100年前の地図では鼠項島と表記されています。
Sokou島と読みます。
どうして観音島の事をSokou島と書いたのでしょうか?
韓国人が観音島を石島(Soku島)と呼んでいたからです。

■100年前の会話
日本人「あの島の名前は?」
韓国人「Soku島と呼ぶNida!」
日本人「Sokou島か…。鼠項島と書いておこう…」

やっぱり石島は観音島でした!

石島

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/29 16:41 投稿番号: [8752 / 9207]
http://blog.goo.ne.jp/yoshi1963jp/e/47c98e13bca94cf47dcdc5d63e310893
引用
石島は観音島

高麗史の于山島

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/29 13:37 投稿番号: [8751 / 9207]
http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/hm093.html#No.676

それはさておき、于山島の名前は高麗史にはじめて登場しました.

『高麗史』巻58、地理志3、蔚珍縣
  欝陵島:県の真東の海中にあり。新羅の時に于山国と称された。ときに武陵、
ときに羽陵ともいう。島は百里四方で新羅の智證王12年(ママ)に降伏した。
(高麗初代)太祖13年(930) にその島民は白吉と土豆を遣わし、貢ぎ物を献
上した。   一説に于山と武陵は本来二島という。お互いの距離は遠くなく、天気が清明であれば望み見ることができる。

・   欝陵島:県の真東の海中にあり    これは蔚珍縣から欝陵島を見ての供述ですね、で、   次に、   一説に于山と武陵は本来二島という。お互いの距離は遠くなく、天気が清明であれば望み見ることができる。   これは二島の説明で、二島はお互い接近しており、晴れていれば二島を見る事が出来る、   つまり   始めが二島の説明であれば、帰結も二島でおわるのですね、

武装韓国警備艇に素手でたち向かい・・

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/28 22:34 投稿番号: [8750 / 9207]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/blog-post_23.html
ー引用ー
1948年頃から1958年頃までに日本の漁業者70名前後が射殺もしくは拿捕抑留中に獄死した、重機関銃,銃器で武装した韓国警備艇に対し、拿捕から日本漁民を守るため、徒手空拳素手でたち向かい、漁民を守ろうとした海上保安庁職員はあっぱれである、

盗賊カモメ李承晩の領土横取り

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/27 18:09 投稿番号: [8749 / 9207]
李承晩の領土横取りと于山島の再浮上
1945年日本が敗戦を迎えた時、韓国の大統領李承晩は日本の領土を奪う絶好の機会と見ました。彼は古代から日本固有の領土だった対馬の領有を主張しようとしただけにとどまらず、あるはずの無い謎の島までその領有権を主張しようとしました。アメリカが、彼の対馬と謎の島(波浪島)に対する主張を受け入れないことが明らかになった時、李は1905年から公式に日本の領土に編入され、しかも数百年前から地図に描かれてきた、竹島(Liancourt Rocks)に目を付け焦点を絞りました。しかし、李には問題がありました。韓国にはその領有権を主張する為の古い地図や文書が存在しなかったのです。そこで韓国は、古地図や古文書にある于山島が実はLiancourt Rocks である、という主張を始めました。しかし、事実はこれらの地図は于山島を鬱陵島の隣接島として描いており、Liancourt Rocksではないのです。韓国政府は、アメリカが日本との苦しい戦争を戦ったばかりで日本の主張を受け入れるはずが無いと思ったのか、アメリカ人が調査したり、何の疑問もはさまずに彼らの主張を受け入れると思ったのでしょう。しかしながら実際は、アメリカ人は疑問をはさんで調査をし、そしてこのLiancourt Rocksが日本に所属すると決定したのです。ー引用ー

1954年 ヴァン・フリート特命報告書

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/27 17:44 投稿番号: [8748 / 9207]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/08/blog-post.html

1954年に、ジェームズ・ヴァン・フリートが大統領特命大使として韓国を訪れます。その報告書、"ヴァン・フリート極東使節団による報告書(ヴァン・フリート特命報告書)"は次のように記述しています。
アメリカと日本が平和協定草案を作る際、韓国が独島領有権を主張したが、アメリカは独島の統治権は日本にあると結論を下した。これによりこの平和条約では、日本が所有権を放棄する島々の中にその島は含まれないなかった。

マノ島

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/27 15:02 投稿番号: [8747 / 9207]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/08/blog-post.html

二島は蔚珍縣の真東の海中にある

柳馨遠 『輿地志』が出てきたとよおお・・

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/26 23:10 投稿番号: [8746 / 9207]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/02/1656.html

柳馨遠 『輿地志』 (「東国興地志」巻之七 江原道 蔚珍)

・韓国政府はどう言い訳するのかねえ・・・・

石島リャンコ島にあらず 明治政府の常識

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/26 21:25 投稿番号: [8745 / 9207]
1900年、朝鮮は勅令41号を世界中に発信した、当然   明治政府は石島の事は承知していたでしょう、しかしながら   明治政府は1905年リャンコ島は、いづこの国も領有していない事を確認してからと念には念を入れて日本の領域に入れました、つまり、これは、石島はリャンコ島ではない事を明治政府は了解していた事に成ります、これが当時の明治政府の常識だったのですね、

崔書勉 教授のメッセージは片手おち

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/26 15:36 投稿番号: [8744 / 9207]
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=62750&servcode=200§code=200
崔書勉(チェ・ソミョン)明智(ミョンジ)大教授兼国際韓国研究院理事長に会い、韓日両国政府と国民に対するメッセージを聞いた。

しかしもっと重要なのは、日本政府が自ら何度か渡航禁止令を出し、領有権を否定したということだ。 1837年に会津屋八右衛門という人がこれを破り、鬱陵島まで行った後、処刑された記録もある。従って、いくら古文書があっても、それは潜商、いまの言葉では密貿易にすぎず、領有権とは関係のない記録ということだ、

・崔書勉 教授のメッセージは片手おちだね、会津屋八右衛門の事件は領有権
  問題に重大な意味を残しておるぞ、

会津屋八右衛門の精神を今に・・・

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/26 14:07 投稿番号: [8743 / 9207]
http://www8.ocn.ne.jp/~hamadajc/paeg/haci-02.html

会津屋八右衛門に対し幕府(大阪町奉行)は、松島へ渡海すると云う名目で、御禁制の磯竹島へ渡るとは不届き先番、即刻死刑を申しつける。
  ここで、幕府は明確に松島、と磯竹島の二島を認識しておりますね、

于山島と松竹島は同じ島 李と輿地勝覧

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/25 21:55 投稿番号: [8742 / 9207]
一方李は「"于山島"は鬱陵島の別名に過ぎず、"松竹島"が鬱陵島の唯一の隣接島である」と答えています。    蔚珍縣の真東の海中にある于山島、欝陵島、この二島は県の真東の海中にある。    この事は   つまり于山島と松竹島は同じ島である事を意味していますね、

二島は蔚珍縣の真東の海中にある

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/25 20:27 投稿番号: [8741 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm094.html#No.685
ー引用ー
第四版にあたる『新増東国輿地勝覧』(1531)が現存し
ますが、これは第1級の史料とされているようです
前置きが長くなりましたが、『新増東国輿地勝覧』(輿地勝覧と略す)に
于山島、欝陵島はこう記されました。

『新増東国輿地勝覧』蔚珍縣 于山島、欝陵島
   一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある。三峰が
高くけわしく空にそびえている。南の峯はすこし低い。天候が清明なら峯のて
っぺんの樹木やふもとの砂浜や渚を歴々と見ることができる。風にのれば、二
日で到着できる。一説によると于山、欝陵島は本来一島という。その地の大き
さは百里である。

・二島は蔚珍縣の真東の海中にある、風にのれば、二日で到着できる。
  とあるが、これはまさしく蔚珍縣から見た二島を述べたのですね、で   二島とは于山島、欝陵島の事ですね、

古文献では松竹島と言う隣接島がある

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/24 16:56 投稿番号: [8740 / 9207]
高宗と李の会話で、1882年の時点においてもなお、大韓帝国の国王とその顧問達さえ鬱陵島の地理に疎かったことがはっきりと分かります。韓国の古地図は于山島を鬱陵島の隣接島である竹嶼として描いていますが、会話に出てきた輿地勝覽を含め、古文献では明らかに、鬱陵島には松竹島と言う隣接島がある、と記述されていたようです。ー引用ー

"于山島竹島"  1899年皇城新聞

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/24 10:40 投稿番号: [8739 / 9207]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/10/188247.html
ー引用ー

1899年の時点になっても、大韓帝国皇城新聞の記事 は「于山島竹島が鬱陵島の最も顕著な島である」と言っており、一つの島に二つの名称があったことを示しています。もしも、この"于山島竹島"がある特定の人物が主張するように、二つの別々の島であったとすれば、なぜ、鬱陵島を郡に昇格させた翌年の大韓勅令41号の中で、竹島(竹嶼)だけが言及されたのでしょうか?

・"于山島竹島"と云う一島を二島に分離すれば、于山島と竹島と成るが、そうしなかったのは、于山島と竹島は同じ島だったという事ですね、

とうだい元くらしだった様な・・・

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/23 19:26 投稿番号: [8738 / 9207]
于山島、松竹島、松島そして竹島は全て同じ島をあらわす名前だったから

つまり   こうだ    倭が云う松島は朝鮮の于山島である   又は   倭が云う
松竹島は朝鮮の于山島である、単純に考えれば、至極あたりまえの事でもある、

于山島、松竹島、松島、竹島は全て同じ島

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/23 18:42 投稿番号: [8737 / 9207]
それにしても、何故于山島、松竹島、松島そして竹島の何れか二つが同時に載っている韓国の地図は存在しないのでしょうか?最も論理的な説明は、これら四つの名称が全て同じ島をあらわす名前であった、と言うことでしょう。
ー引用ー

・于山島、松竹島、松島そして竹島は全て同じ島をあらわす名前だった、
    ふ〜   なんてえーこった

松竹島の別名は竹島、松島とも呼ばれた

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/23 17:47 投稿番号: [8736 / 9207]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/10/188247.html

松竹島は、鬱陵島の隣接島である竹島(現在の韓国名:本サイトでは現竹島と区別する為に竹嶼と言う名称で統一しています。)であることは、ほぼ間違いありません。この竹島(竹嶼)は高宗と李のそれぞれが松竹島の別名としてあげた二つの名前、竹島、松島の一つでもある事も鑑みて、確実です。
ー引用ー

・松竹島とは竹嶼ですね、松竹島は竹島又は松島とも呼ばれていた、

Re: 鬱陵島の隣接島の数について

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2008/04/23 11:11 投稿番号: [8735 / 9207]
その後李は、鬱陵島を探索して、于山島と言う名前を聞いた。
そして、鬱陵島の最高峰に登頂して、遙か海上にもなにもないと報告した。
于山島というのは鬱陵島の古名だろうと結論してます。

鬱陵島の隣接島の数について

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/22 21:38 投稿番号: [8734 / 9207]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/10/188247.html


隣接島の数について意見が食い違う

鬱陵島の隣接島の数について、二人の意見が食い違っていることがお分かりでしょうか。高宗は「二つある」と言い、李は「一つしかない」と言っています。また、王は「"松竹島"と "芋山島" は鬱陵島の隣接島である」と言い、一方李は「"于山島"は鬱陵島の別名に過ぎず、"松竹島"が鬱陵島の唯一の隣接島である」と答えています。王はそれでもまだ自説にこだわり、"松島"と"竹島"と言う名が"于山島"とともに使われており、三島で所謂鬱陵島を形成している、と述べています。李はしかしそれに同意せず、「松島と竹島が鬱陵島の東にある」と言う者はいるが、実際は松竹島と言う一つの島があるのみで、松島と竹島と言う別々の島があるわけではない、と答えています。


高宗は、名称については曖昧であったようですが、3つの島が鬱陵島を形成している事に確信を持っていたようです。李が松竹島は鬱陵島の隣接島に過ぎない、と言った時、王は松竹島は松島と竹島と言う、二つの別々の島であり、芋山島が鬱陵島の別名に過ぎないのなら、やはり鬱陵島はそれらの三島で形成されていることになる、と言っています。李は、その仮説を否定し「鬱陵島は松竹島、と言う隣接島が一島あるのみ」と答えました。

『高宗実録』と鬱陵島検察

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/22 20:13 投稿番号: [8733 / 9207]
http://www.han.org/a/half-moon/hm094.html#No.690
ー引用ー

『高宗実録』と鬱陵島検察
2003/ 3/21
Yahoo! 掲示板「竹島」#1547

   半月城です。
  「竹島一件」以後の江戸時代、「于山すなわち倭がいうところの松島(竹島
=独島)」をめぐって日朝両国では何事もなく平穏な時代がつづきました。
   ところが明治維新をきっかけに日本帝国では対外膨張の気運が高まり、日
本政府の政策とは別に、日本人の鬱陵島への渡航が盛んになりました。これは
必然的に鬱陵島にしかれていた朝鮮政府の空島政策を激変させることになりま
した。今回はこれを取りあげることにします。
   1881年、朝鮮の鬱陵島捜討官は同島で日本人が伐木しているのを発見しま
した。朝鮮政府としても放ってはおけず、関係機関が対策にのりだしました。
統理機務衙門は次のような提案をしたことが『高宗実録』18年5月条に記さ
れました。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   ところで彼ら日本人が鬱陵島で人知れず木を切り運び出すのは辺禁政策に
かかわることであり、厳重に防がねばならない。将来、この事実を書契にした
ため、東莱(釜山)の倭館に送り、日本外務省に転送するようにする。
   考えるに、この島は茫々たる海のなかにあるが、そのまま空島にしておく
のはさみしいかぎりである。その形勢が要害であるかどうか、また防御が緊密
であるかどうかなどをことごとく審査して処理すべきである。副護軍の李奎遠
を鬱陵島検察使に任命して早々に行かせ、徹底的に検討し意見をまとめ稟議す
るのはいかがであろうか。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   この提案は承認され、検察使の李奎遠は王に召されましたことが『高宗実
録』や『承政院日記』に記されました。承政院とは王命や王への提言を取り扱
う官庁ですが、その公的な記録が『承政院日記』であり、現在 1623‐1894年
分の3047冊という膨大な史料が残されました。朝鮮は『実録』といい『承政院
日記』といい、記録を重視した国でした。
   さて、李奎遠は鬱陵島へ出発する前に王と面談しましたが、そのときのよ
うすが『高宗実録』と『承政院日記』に記されました。後者はその対話を高宗
19年(1882)4月7日条にこう記録しました。

・朝鮮は『実録』といい『承政院日記』といい、記録を重視した国でした。
  とあるが   何で現竹島の朝鮮記録は一つもないのかねえええ、

安の子山島は竹嶼だった

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/21 16:46 投稿番号: [8732 / 9207]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/search?q=%E9%81%82%E4%BB%A5%E7%BF%8C%E6%9B%89%2C+%E6%8B%95%E8%88%9F%E5%85%A5%E5%AD%90%E5%B1%B1%E5%B3%B6
ー引用ー
・安一行は15日の午前1時頃磯竹島を出て15日の午前5時頃島に着いた、着いた島は松島かそれとも竹嶼か、

” 奎遠曰: 或稱松島、竹島,”

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/21 04:18 投稿番号: [8731 / 9207]
。” 奎遠曰: “謹當深入檢察矣。 或稱松島、竹島, 在於鬱陵島之東, 而此非松竹島以外, 別有松島、竹島也。”

(日本語訳)
李奎遠曰く「深く分け入って検察を行います。その島は鬱陵島の東にあり、時に松島とも竹島とも呼ばれています。しかし、そこにあるのは、松竹島で、松島と竹島と言う別々の島があるわけではありません。」

” 繁曰: “ 而又稱松島、竹島

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/21 04:06 投稿番号: [8730 / 9207]
。” 繁曰: “或稱芋山島, 或稱松竹島, 皆《輿地勝覽》所載也。 而又稱松島、竹島,與芋山島爲三島統稱鬱陵島矣。 ”

(日本語訳)
王曰く「芋山島(于山島)あるいは松竹島と呼ばれるものは、輿地勝覽に記述がある。それはまた、松島、竹島とも呼ばれ、于山島と3つあわせて鬱陵島と呼ばれる島を成している。

于山はすなわち倭がいうところの松島である

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/20 22:02 投稿番号: [8729 / 9207]
一方、松島(竹島=独島)のほうはどうでしょうか。松島の名が記された
朝鮮の文献は柳馨遠の「輿地志」(1656)が初出のようです。ただし、この本は
現存しません。それを引用した本に『疆界考』と『東国文献備考』の「輿地考」
があります。『疆界考』も「輿地考」も申景濬が編纂しました。
  『疆界考』(1756)は朝鮮歴代国家の領域を中心に記したもので、筆写本が高
麗大学図書館にあるようです。一方『東国文献備考』(1770)ですが、これは王
命により編纂された百科全書風の文献で文物や制度を解説したものでした。資
料価値が高い文献です。
   この本も現存しませんが、これを増補、出版した『増補文献備考』(1908)
は日本の国会図書館にもあります。この本は増補した部分が明確にされていま
すが、「輿地志」于山島条は増補した部分には入っていません。したがって、
于山島を引用した部分はオリジナルである『東国文献備考』当時の記述のまま
ではないかと思われます。そこに松島はこう記されました。

  「輿地志がいうには、鬱陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいう
ところの松島である(注1)」

   この認識は「輿地志」(1656)の見方であると同時に、『増補文献備考』が
発刊された1908年当時の認識でもあるといえます。

・つまり   輿地志がいうには、鬱陵、于山(竹嶼)は皆于山国の地、于山(竹嶼)はすなわち倭がいうところの松島である、と李奎遠の言葉を借りれば、こうなるのでしょうか、

于山島(松竹島)は時に「松島」とも呼ばれ

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/20 20:40 投稿番号: [8728 / 9207]
李奎遠曰く「深く分け入って検察を行います。芋山島(于山島)あるいは松竹島と呼ばれるその島は鬱陵島の東にあり、時に松島とも竹島とも呼ばれています。しかし、そこにあるのは、松竹島で、松島と竹島と言う別々の島があるわけではありません。」

・于山島(松竹島)は、時に「松島」とも呼ばれていますと李奎遠は述べていますね   つまり   松島なんて固有名称は倭人がつけたのでしょう、

王は檢察使李奎遠を呼んで謁見した

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/20 18:28 投稿番号: [8727 / 9207]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/10/188247.html

“7日、王は檢察使李奎遠を呼んで謁見した。

王曰く「近頃、鬱陵島に他の国の者が絶えず往来して島を占有する、という被害がでている。松竹島と于山島は鬱陵島の傍にあるはずだが、互いの距離はその産物についての詳細が分かっていない。君は特別にこの検察使に選ばれたわけであるから、しっかりと仕事をせよ。民を住まわせる村を作るかもしれないから、詳細な地図と記録をとるように。」

李奎遠曰く「于山島は鬱陵島のことです。つまり于山とは、彼の国の昔の首都の名前です。松竹島は島から三数十里ほど沖の小さな島です。産物は、檀香と簡竹です。」

王曰く「芋山島(于山島)あるいは松竹島と呼ばれるものは、輿地勝覽に記述がある。それはまた、松島、竹島とも呼ばれ、于山島と3つあわせて鬱陵島と呼ばれる島を成している。全てについてその事情を検察せよ。そもそも三陟と越松の土候が鬱陵島の調査を行っていたが、皆いい加減で島の外周しか検察していない。こうしたことが外国人による弊害を招いたのだ。」

李奎遠曰く「深く分け入って検察を行います。その島は鬱陵島の東にあり、時に松島とも竹島とも呼ばれています。しかし、そこにあるのは、松竹島で、松島と竹島と言う別々の島があるわけではありません。」

王曰く「それは前任の検察使から聞いたのか?」

李奎遠曰く「いいえ前任者とはまだ話をしておりません。しかし、これが前任者の話の要旨であると聞き及んでいます。」”

松竹島

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/20 18:13 投稿番号: [8726 / 9207]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/10/188247.html

1882年   高宗は・・

韓国  対馬を要求  

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/20 14:52 投稿番号: [8725 / 9207]
1951(昭和ニ六)年4月27日 - 韓国が対馬の領有権を主張

韓国は米国務省に送った文書の中で、サンフランシスコ条約草案の「領土」部分に対して言及しながら、「韓国は正義が永久的平和の唯一の基盤という堅固な信頼で対馬島の領土的地位に対する完全な検討をすることを要請する」とし、「歴史的にこの島は韓国領土だったが日本によって 強制的、不法的に占領された」と言った。しかし、米国側は「対馬は日本が長期間にわたり完全に統治しており、平和条約は対馬の現在の地位に影響を及ぼさない」と答え、韓国の要求を拒否した。
1951年7月12日 - 韓国はアメリカに対して、日本が対馬に対する権利を放棄することなどを含めた10項目の覚書を送る
1951年7月18日 - 韓国は再度、アメリカに対して5項目の要求を行い、「独島・対馬島・波浪島」を韓国領に含めるように求めた。

佐田白茅「朝鮮国交際始末内探書」

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/20 13:46 投稿番号: [8724 / 9207]
1870(明治三)年 4月- 佐田白茅「朝鮮国交際始末内探書」
明治3年、外務省の佐田白茅が、朝鮮を訪問し日朝交渉を行った報告書。「竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末」と書いてあるが、その中に"松島"は竹島(鬱陵島)の隣島であり、これまでに掲載した書留等が何もない、つまりこの島に関する記録が何もない、と報告している。日本は江戸時代からLiancourt Rocks のことを"松島"と呼んでおり文書や地図なども存在することからも、ここでいう鬱陵島の"松島"はは日本の"松島"ではないことが分かる。韓国人が鬱陵島の隣接島、竹島(現竹嶼)を松島とも呼んでいた事は、1882年に、朝鮮政府の鬱陵島検察使、李奎遠は高宗に「鬱陵島の隣接島は竹島で、松島とも呼ばれる」と返答している事とも符合する。1875年の佐田による地図改訂新鐫朝鮮全図 では、竹嶼までしか描かれておらず、この"松島"が現竹島でないことが分かる。

竹島問題の歴史

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/20 13:30 投稿番号: [8723 / 9207]
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/blog-post_23.html

・竹嶼を日本、朝鮮ともに「松島」と呼んだ事がある、う〜む〜   これは、

実効支配とは 国家が一枚かんでいる事 

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/19 23:08 投稿番号: [8722 / 9207]
残念ですが、鳥取藩の地方行政レベルで竹島を狩猟や漁業で使用し実行支配していたことがわかっております。
対し、韓国が実行支配していたという文献がありますか?

・江戸時代、松島を狩猟や漁業で使用したが、それには幕府の許可(奉書)をとったのです、つまり国家が一枚かんでいるのですね   これを実効支配と申します、

シーボルトの誤地図がそもそもの始まり

投稿者: ninnikumanx 投稿日時: 2008/04/19 21:32 投稿番号: [8721 / 9207]
http://nihongo-online.jp/tree12/treebbs.cgi?kako=1&log=5946

  Sieboldは、1840年に刊行した地図において、アルゴノート島を竹島、ダージュレー島を松島と表記しました。これがCタイプの地図のもととなります。
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