Re: 被害者遺族の感情と死刑廃止(1)
投稿者: assaraamaaleicomnjp 投稿日時: 2009/01/13 05:16 投稿番号: [15928 / 17759]
こちらもドン亀で申し訳ありません。
年末年始はいろいろと忙しくて・・・(^_^;
まあ死刑制度の反対賛成については、平行線で結論めいたものがでそうにはないことは、実生活での友人との話でも同じようです。
ただ、私は、死刑反対を唱える人たちがもしかしたら見落としている事柄があって、そのいかにも正義心から出てきた主張の陰で、被害にあった弱者が傷つけられ、泣いている人たちのことを十分に理解できていないのではないか?ということを、ここの所のドラさんの書き込みによっても感じてしまうので、こうして長々と書きつづっているわけです。
いわゆる殺害犯に対して、死刑を容認するということは、被害者や被害者家族に対して通常では、国家権力によって強制的に「無念」を強いるということであることは、自明なわけですが、その被害者がその無念に対して、復讐しなくとも何らかの解決、納得できうる解答を持つことができるのであれば、そういう人に対して死刑という刑罰は不要なのかもしれませんが、しかし、犯罪者等の言動に対してなおその心のわだかまりが解消されないのであれば、それをも無視して強制的に我慢させるということは。それもまた「人権」に反する行為だといえないでしょうか?
多くのカルト信者は、自分の信仰は他のどれよりも真理を伝えていると心から信じて、世の中をよりよくするために、自らの信仰をより多くの他者に伝えるという使命感を持って伝道するという行為に走っているわけですが、「人権」もまたそれと同じように、もしかしたら非常に曖昧な概念を信じるあまり、他者を傷つけている可能性も考えなければならないのではないだろうか?・・・というのが、私の最近の思うところです。
「確信犯」という言葉は誤用されがちですが、「犯罪」という言葉は適切ではないかもしれませんが、自らの信じる信仰やイデオロギーなどにその真理を感じて運動する行為の中にも、そういう確信犯的要素の危険性の存在をみなければならないのではないでしょうか?
これは メッセージ 15912 (dorawasabi5001 さん)への返信です.
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