盧溝橋事件32 日本と蒋介石に報告入る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/07/28 18:36 投稿番号: [520 / 2250]
日本側への報告
戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 154〜155p
《 事件の報を聞いた外務省で、八日早朝、あわただしく登庁した首脳が協議し、
事件不拡大、局地解決の方針を定めた。 このとき軍の陰謀説が憶測された。
石射猪太郎外務省東亜局長は、午前中に、後宮淳陸軍省軍務局長、
豊田副武海軍省軍務局長と東亜局長室で会同し、事件不拡大を申し合わせた。
(中国問題について三局長が随時参集し相談するのが従来からの慣行であり、
「三省事務当局会議」 と称していた)
午後、閣議が開かれ、事件不拡大、局地解決の方針が決定され、
陸、海、外各出先機関に訓令が出された。
参謀本部第一部長石原莞爾少将は
「目下わが国は満州国建設の完成に専念し、対ソ軍備を完成し、これによって
国防は安固となるのである。支那に手を出して支離滅裂にしてはならない」
という考えであったから、事件発生とともに不拡大、
現地解決の方針で指導調整に当たった。
当時、参謀次長今井清中将 (15期) 病気のため、第一部長は閑院宮参謀総長に
直接この方針を説明し決裁を得て、参誌本部の意志確定に努めた。》
一方、中国も蒋介石のもとに報告が入った。
蒋介石秘録下 サンケイ新聞社刊 199〜200p
《 盧溝橋事件の発生・経過は、七月八日、廬山 (ろざん) で秦徳純らから報告を受けた。
『倭寇 (日本軍) は盧溝橋で挑発に出た。日本はわれわれの準備が未完成の時に乗じて、
われわれを屈服させようというのだろうか?
それとも宋哲元に難題をふっかけて、華北を独立させようというのだろうか?
日本が挑戦してきた以上、いまや応戦を決意すべき時であろう』(七月八日の日記)
日中間の外交交渉は中断したままであり、
しかも日本軍の挑発的な大演習が繰り返された末の交戦である。
これが全中国にたいする本格的な侵略の開始となる可能性は、きわめて高かった。
ただちに宋哲元に電報で指示した。
『宛平県城を固守せよ。退いてはならない。全員を動員して事態拡大に備えよ』
事変の拡大に備えて、準備を急がなくてはならなかった。》
* この記述、サンケイ新聞社刊行といえども、少しおかしい。
「日本軍の挑発的な大演習が繰り返された」 が蒋介石の思い込みなら、仕方ないが、
この書き方ではサンケイ新聞社の歴史観に見えてくる。
次に 「宋哲元に電報で指示」 というが、
宋哲元は日本と南京の板挟みが嫌になり、故郷山東省の田舎、楽陵に、
先祖の墓参りと称して、帰ったきり、北京に戻っていなかった。
最初は墓参だったが、次には 「墓の改修」 に切り替え、その次は 「病気療養」
という名目に改められ、さらに一ケ月という長期にわたる休暇申請が返電された。
・・・公然の仮病だった。(寺平忠輔著 『日本の悲劇 盧溝橋事件』 31p)
だから、彼に電報しても間に合わない。
それに盧溝橋事件が起きても、彼はすぐには戻らなかった。
宋哲元は12日に楽陵を発ったが、天津に留まり、19日にやっと北京に向かった。
こういう状態では、宋哲元より、秦徳純に直接打電した方がずっと早い。
つづく
戦史叢書 『支那事変 陸軍作戦1』 154〜155p
《 事件の報を聞いた外務省で、八日早朝、あわただしく登庁した首脳が協議し、
事件不拡大、局地解決の方針を定めた。 このとき軍の陰謀説が憶測された。
石射猪太郎外務省東亜局長は、午前中に、後宮淳陸軍省軍務局長、
豊田副武海軍省軍務局長と東亜局長室で会同し、事件不拡大を申し合わせた。
(中国問題について三局長が随時参集し相談するのが従来からの慣行であり、
「三省事務当局会議」 と称していた)
午後、閣議が開かれ、事件不拡大、局地解決の方針が決定され、
陸、海、外各出先機関に訓令が出された。
参謀本部第一部長石原莞爾少将は
「目下わが国は満州国建設の完成に専念し、対ソ軍備を完成し、これによって
国防は安固となるのである。支那に手を出して支離滅裂にしてはならない」
という考えであったから、事件発生とともに不拡大、
現地解決の方針で指導調整に当たった。
当時、参謀次長今井清中将 (15期) 病気のため、第一部長は閑院宮参謀総長に
直接この方針を説明し決裁を得て、参誌本部の意志確定に努めた。》
一方、中国も蒋介石のもとに報告が入った。
蒋介石秘録下 サンケイ新聞社刊 199〜200p
《 盧溝橋事件の発生・経過は、七月八日、廬山 (ろざん) で秦徳純らから報告を受けた。
『倭寇 (日本軍) は盧溝橋で挑発に出た。日本はわれわれの準備が未完成の時に乗じて、
われわれを屈服させようというのだろうか?
それとも宋哲元に難題をふっかけて、華北を独立させようというのだろうか?
日本が挑戦してきた以上、いまや応戦を決意すべき時であろう』(七月八日の日記)
日中間の外交交渉は中断したままであり、
しかも日本軍の挑発的な大演習が繰り返された末の交戦である。
これが全中国にたいする本格的な侵略の開始となる可能性は、きわめて高かった。
ただちに宋哲元に電報で指示した。
『宛平県城を固守せよ。退いてはならない。全員を動員して事態拡大に備えよ』
事変の拡大に備えて、準備を急がなくてはならなかった。》
* この記述、サンケイ新聞社刊行といえども、少しおかしい。
「日本軍の挑発的な大演習が繰り返された」 が蒋介石の思い込みなら、仕方ないが、
この書き方ではサンケイ新聞社の歴史観に見えてくる。
次に 「宋哲元に電報で指示」 というが、
宋哲元は日本と南京の板挟みが嫌になり、故郷山東省の田舎、楽陵に、
先祖の墓参りと称して、帰ったきり、北京に戻っていなかった。
最初は墓参だったが、次には 「墓の改修」 に切り替え、その次は 「病気療養」
という名目に改められ、さらに一ケ月という長期にわたる休暇申請が返電された。
・・・公然の仮病だった。(寺平忠輔著 『日本の悲劇 盧溝橋事件』 31p)
だから、彼に電報しても間に合わない。
それに盧溝橋事件が起きても、彼はすぐには戻らなかった。
宋哲元は12日に楽陵を発ったが、天津に留まり、19日にやっと北京に向かった。
こういう状態では、宋哲元より、秦徳純に直接打電した方がずっと早い。
つづく
これは メッセージ 519 (kireigotowadame さん)への返信です.