Re: rty3657898さま1
投稿者: rty3657898 投稿日時: 2007/05/15 03:20 投稿番号: [13152 / 22816]
>「太平洋戦争は薩長が起こした戦争だ!」
「日米衝突を回避しようとする昭和天皇の意向を踏まえ、明治維新時に政府軍に蹂躙された東北出身ゆえか「忠狂」と呼ばれるほど天皇を敬愛していた東條英機本人をあえて首相にすえることによって、陸軍の権益を代表する立場を離れさせ、天皇の下命により対米交渉を続けざるを得ないように追い込むことができる」
これは東條英機を首班指名した内大臣木戸幸一の言葉である。木戸の叔父で養父は、池田屋事変、池田屋事変、蛤御門の変、第一次長州征伐で多くの長州指導者が自決した中、長州主戦派から「逃げ小五郎」と揶揄された桂小五郎こと木戸孝允である。
開戦時の東條内閣時の軍首脳の東條や板垣の南部藩も木村の川越藩、山本五十六の長岡藩も奥羽列藩同盟は、戊辰戦争時に全て捕虜になり藩主の助命嘆願している。
東北地方においては、伊達、南部、佐竹、上杉、陸奥、津軽、相馬、秋田、六郷、戸沢など鎌倉時代から名家が多く江戸末期まで共存共栄をし、戦をしても相手を滅ぼすまではしなかった。農耕国として隣国を占領し住民を虐殺や主君を殺しで恨まれる事があったら農業は衰え本国にも飢饉を招くからである。
戊辰時の会津藩白虎隊にしても一小隊19名が飯盛山で自決しただけで、他部隊300名の少年隊士は投降して捕虜になっている。それが現在では白虎隊は飯盛山で総自決したと伝えられている。東日本の多くの藩では、主君や藩が滅んでも、お家復興の為や残された幼主を支える為に追い腹を切る事を禁じられた。捕虜になっても主家やお家の面目を守れと言う考えの方が強かった。
前に書いた捕虜から挽回した源頼朝、義経兄弟の例のように。
東條の南部藩を占領した長州第四大隊は盛岡城下で略奪、暴行、強姦を尽くし、司令士は更迭され隊士の乱暴の責任をとって切腹している。その後、桂太郎が司令士になり軍規を立て直したが南部藩の長州に対する恨みは根強かった。
1876年に萩の乱、1877年に西南戦争と薩長の不満士族が乱を起す。明治政府は会津、南部藩など旧賊軍を投与する。その中に旧南部藩士東條英俊がいる。
東條英俊は1885年に陸軍大学校第一期首席卒業し賊軍出身者として異例の陸軍中将まで昇り詰める。
日露戦争時、第三旅団長で従軍するが師団長川村景明(薩摩)に薩摩藩が関ヶ原以来得意とする夜襲特攻を命じられる。東條は部下を多く死なせる薩摩戦法を拒否する。東條は山県有朋(長州)に藩閥の弊害を抗議し、山県の怒りを買った事もあり処罰される。山県に嫌われ陸軍内で孤立状態であった英教を引きたてたのは川上操六(薩摩)であったが1899年に川上が死ぬと東條は予備役として除隊させられる。
下野した英教は自身の挫折した夢を息子英機に託し軍人の心構えを説いて聞かせた。1912年息子は父の期待に応え陸軍大学校に入学した。英教は息子の将来を慮り、書き溜めていた陸軍や薩長閥批判の草稿を焼却し、その後死の床についた。
東條英機は父に対する薩長の理不尽な仕打ちや、薩長中心の政治・軍事に怒りを感じ、以後、薩長閥打倒に情熱を燃やすようになる。
東條英機は薩摩的な特攻攻撃や長州的な自決をもっとも嫌った。
東條内閣は日本最初の玉砕となるサイパン島陥落で総辞職する訳だが、最期に成し遂げた仕事として、サイパン島で自決した住民に慰霊金が行く様に軍命令で自決した事にした。沖縄の学童、婦女老人に内地又は台湾への疎開命令を出して辞めた。しかし、この配慮が東條が更迭された後起きた、各玉砕、特攻作戦、沖縄戦など全て東條の責任とされる。
昭和天皇は東條について「憲兵を用い過ぎた事と、あまりに兼職をもち多忙すぎたため国民に東條の気持ちが通じなかった」と回想している。
生真面目さゆえに官憲権力にしがみつき粛清政治を行ってしまった。
東條英機を例えるなら
南部藩出身の新選組隊士諸士取扱役兼監察(新撰組内憲兵)嘉村権太郎だろう。浅田次郎の小説「壬生義士伝」の描く田舎侍そのもので潔くない。小説では、嘉村権太郎は鳥羽伏見の戦いで脱走し南部藩大阪屋敷で自決したとされているが、実際の嘉村は明治三年一月十五日まで生き延びている。
「日米衝突を回避しようとする昭和天皇の意向を踏まえ、明治維新時に政府軍に蹂躙された東北出身ゆえか「忠狂」と呼ばれるほど天皇を敬愛していた東條英機本人をあえて首相にすえることによって、陸軍の権益を代表する立場を離れさせ、天皇の下命により対米交渉を続けざるを得ないように追い込むことができる」
これは東條英機を首班指名した内大臣木戸幸一の言葉である。木戸の叔父で養父は、池田屋事変、池田屋事変、蛤御門の変、第一次長州征伐で多くの長州指導者が自決した中、長州主戦派から「逃げ小五郎」と揶揄された桂小五郎こと木戸孝允である。
開戦時の東條内閣時の軍首脳の東條や板垣の南部藩も木村の川越藩、山本五十六の長岡藩も奥羽列藩同盟は、戊辰戦争時に全て捕虜になり藩主の助命嘆願している。
東北地方においては、伊達、南部、佐竹、上杉、陸奥、津軽、相馬、秋田、六郷、戸沢など鎌倉時代から名家が多く江戸末期まで共存共栄をし、戦をしても相手を滅ぼすまではしなかった。農耕国として隣国を占領し住民を虐殺や主君を殺しで恨まれる事があったら農業は衰え本国にも飢饉を招くからである。
戊辰時の会津藩白虎隊にしても一小隊19名が飯盛山で自決しただけで、他部隊300名の少年隊士は投降して捕虜になっている。それが現在では白虎隊は飯盛山で総自決したと伝えられている。東日本の多くの藩では、主君や藩が滅んでも、お家復興の為や残された幼主を支える為に追い腹を切る事を禁じられた。捕虜になっても主家やお家の面目を守れと言う考えの方が強かった。
前に書いた捕虜から挽回した源頼朝、義経兄弟の例のように。
東條の南部藩を占領した長州第四大隊は盛岡城下で略奪、暴行、強姦を尽くし、司令士は更迭され隊士の乱暴の責任をとって切腹している。その後、桂太郎が司令士になり軍規を立て直したが南部藩の長州に対する恨みは根強かった。
1876年に萩の乱、1877年に西南戦争と薩長の不満士族が乱を起す。明治政府は会津、南部藩など旧賊軍を投与する。その中に旧南部藩士東條英俊がいる。
東條英俊は1885年に陸軍大学校第一期首席卒業し賊軍出身者として異例の陸軍中将まで昇り詰める。
日露戦争時、第三旅団長で従軍するが師団長川村景明(薩摩)に薩摩藩が関ヶ原以来得意とする夜襲特攻を命じられる。東條は部下を多く死なせる薩摩戦法を拒否する。東條は山県有朋(長州)に藩閥の弊害を抗議し、山県の怒りを買った事もあり処罰される。山県に嫌われ陸軍内で孤立状態であった英教を引きたてたのは川上操六(薩摩)であったが1899年に川上が死ぬと東條は予備役として除隊させられる。
下野した英教は自身の挫折した夢を息子英機に託し軍人の心構えを説いて聞かせた。1912年息子は父の期待に応え陸軍大学校に入学した。英教は息子の将来を慮り、書き溜めていた陸軍や薩長閥批判の草稿を焼却し、その後死の床についた。
東條英機は父に対する薩長の理不尽な仕打ちや、薩長中心の政治・軍事に怒りを感じ、以後、薩長閥打倒に情熱を燃やすようになる。
東條英機は薩摩的な特攻攻撃や長州的な自決をもっとも嫌った。
東條内閣は日本最初の玉砕となるサイパン島陥落で総辞職する訳だが、最期に成し遂げた仕事として、サイパン島で自決した住民に慰霊金が行く様に軍命令で自決した事にした。沖縄の学童、婦女老人に内地又は台湾への疎開命令を出して辞めた。しかし、この配慮が東條が更迭された後起きた、各玉砕、特攻作戦、沖縄戦など全て東條の責任とされる。
昭和天皇は東條について「憲兵を用い過ぎた事と、あまりに兼職をもち多忙すぎたため国民に東條の気持ちが通じなかった」と回想している。
生真面目さゆえに官憲権力にしがみつき粛清政治を行ってしまった。
東條英機を例えるなら
南部藩出身の新選組隊士諸士取扱役兼監察(新撰組内憲兵)嘉村権太郎だろう。浅田次郎の小説「壬生義士伝」の描く田舎侍そのもので潔くない。小説では、嘉村権太郎は鳥羽伏見の戦いで脱走し南部藩大阪屋敷で自決したとされているが、実際の嘉村は明治三年一月十五日まで生き延びている。
これは メッセージ 13134 (lilasnosakukoro さん)への返信です.
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