芸術・真実・政治 ハロルド・ピンター 1
投稿者: messaiah2101 投稿日時: 2005/12/31 12:34 投稿番号: [86184 / 118550]
1958年に、わたしはこう書きました。
「現実と非現実をはっきり区別する違いはない。真実と嘘の間にも。物事は必ずしも真実か嘘か、どちらかでなければならない、ということではない。真実であり同時に嘘でもありうる」
わたしはこの考えがいまなお、意味を失っておらず、芸術を通した現実の探求になお適用しうるものだと信じています。ですから、芸術作家としてのわたしは、いまもこの考えに立っている。しかし、ひとりの市民としては、それに従うことはできません。ひとりの市民として、わたしもまた、こう問いかけなければならないのです。「真実って何なんだ? 嘘って何なんだ?」
演劇においては、真実は永遠にとらえられません。真実をほんとうに見ることはできない。しかし、真実を探求する衝動を抑えることもまたできないことです。そしてその探求こそ、努力を駆動するものであることは明らかです。その探求は、みなさん自身のお仕事。暗闇のなかの手探りで、真実に躓(つまず)くことの方が多いはずです。真実にぶつかったり、真実と何か関係ありそうなその姿かたちを一瞬、見たつもりになったり。自分で気づかないうちに、そうしていることが多いはずです。しかし、現実における真実というものは、演劇という芸術のなかで見つけ出そうとする真実とは、縁もゆかりもないものです。現実において真実はいくつもある。これらの真実は互いに挑戦し合い、和解し合い、反映し合い、無視し合い、嘲笑し合い、そして互いに盲(めし)いています。真実を手中に収めたと思う瞬間もおありのことでしょう。しかし真実はあなたの指の間をすり抜け、失われてしまうことでしょう。
(中略 ここでは氏の劇作論が述べられています)
政治の言葉は、政治家によって使われると、こうした芸術の言葉の領域に入っては行かないものです。わたしたちが手にしている証拠によれば、大多数の政治家は真実ではなく、権力とその維持に関心を向けているからです。権力を維持するには、民衆を無知のなかにとどめることが不可欠です。民衆が真実を知らずに、自分自身の生の真実さえ知らずに生きていることが不可欠です。ですから、わたしたち民衆を取り囲んでいるものは、嘘の膨大な織物なのです。それをえさとして、わたしたちは食べ続けている。
ここにいらっしゃる皆さん方全員がご存知のように、イラク侵略を正当化したことといえば、サダム・フセインが大量破壊兵器のきわめて危険な一群を保有し、そのうちの一部は45分以内の発射が可能で、悲惨な荒廃を招くものだということでした。それが真実だと、わたしたちは確信させられました。けれどそれは真実ではありませんでした。イラクはアルカイダと関係があり、ニューヨークにおける「9・11」の残虐行為にも相応の責任を持つと、わたしたちは吹き込まれました。真実ではありませんでした。イラクは世界にとって脅威であると教えられました。それが真実だと確信させられました。真実ではありませんでした。
真実は、まったく異なったものです。真実は、米国が世界における役割をどう理解し、それをどう体言しているかという点にかかわるものです。
ふたたび現在に戻る前に、わたしは最近の過去を――それは第2次大戦後の米国外交政策のことでありますが――見てみたいと思います。この時期のことを検証することは、わたしたちにとって義務であると、わたしは信じています。それは、(授賞式場という)こうした場所において、つねに許されるべきことではありますが……。
戦後、ソ連や東欧全域で何があったか、誰もが知っています。組織的な暴行、広汎な残虐、独立した思想に対する容赦のない弾圧。すべては完全に記録され、確証されました。
しかし、わたしが言いたいのは、同じ時期、米国が行った数々の犯罪は、表面的に記録されているだけだということです。文書化もされなければ、認められもせず、そもそも犯罪を犯したことさえ気づかれずにいる。これはきちんと決着をつけるべきことであり、そこで明かされるべき真実は、わたしたちの世界がよって立つものに相当な影響を及ぼすものと、わたしは信じています。ソ連という存在によって、一定程度、抑制されていましたが、世界各地での米国の行いは、好き勝手なことができる白紙委任状を自分たちは得ているのだと自ら結論づけていることを、はっきり示しています。
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「現実と非現実をはっきり区別する違いはない。真実と嘘の間にも。物事は必ずしも真実か嘘か、どちらかでなければならない、ということではない。真実であり同時に嘘でもありうる」
わたしはこの考えがいまなお、意味を失っておらず、芸術を通した現実の探求になお適用しうるものだと信じています。ですから、芸術作家としてのわたしは、いまもこの考えに立っている。しかし、ひとりの市民としては、それに従うことはできません。ひとりの市民として、わたしもまた、こう問いかけなければならないのです。「真実って何なんだ? 嘘って何なんだ?」
演劇においては、真実は永遠にとらえられません。真実をほんとうに見ることはできない。しかし、真実を探求する衝動を抑えることもまたできないことです。そしてその探求こそ、努力を駆動するものであることは明らかです。その探求は、みなさん自身のお仕事。暗闇のなかの手探りで、真実に躓(つまず)くことの方が多いはずです。真実にぶつかったり、真実と何か関係ありそうなその姿かたちを一瞬、見たつもりになったり。自分で気づかないうちに、そうしていることが多いはずです。しかし、現実における真実というものは、演劇という芸術のなかで見つけ出そうとする真実とは、縁もゆかりもないものです。現実において真実はいくつもある。これらの真実は互いに挑戦し合い、和解し合い、反映し合い、無視し合い、嘲笑し合い、そして互いに盲(めし)いています。真実を手中に収めたと思う瞬間もおありのことでしょう。しかし真実はあなたの指の間をすり抜け、失われてしまうことでしょう。
(中略 ここでは氏の劇作論が述べられています)
政治の言葉は、政治家によって使われると、こうした芸術の言葉の領域に入っては行かないものです。わたしたちが手にしている証拠によれば、大多数の政治家は真実ではなく、権力とその維持に関心を向けているからです。権力を維持するには、民衆を無知のなかにとどめることが不可欠です。民衆が真実を知らずに、自分自身の生の真実さえ知らずに生きていることが不可欠です。ですから、わたしたち民衆を取り囲んでいるものは、嘘の膨大な織物なのです。それをえさとして、わたしたちは食べ続けている。
ここにいらっしゃる皆さん方全員がご存知のように、イラク侵略を正当化したことといえば、サダム・フセインが大量破壊兵器のきわめて危険な一群を保有し、そのうちの一部は45分以内の発射が可能で、悲惨な荒廃を招くものだということでした。それが真実だと、わたしたちは確信させられました。けれどそれは真実ではありませんでした。イラクはアルカイダと関係があり、ニューヨークにおける「9・11」の残虐行為にも相応の責任を持つと、わたしたちは吹き込まれました。真実ではありませんでした。イラクは世界にとって脅威であると教えられました。それが真実だと確信させられました。真実ではありませんでした。
真実は、まったく異なったものです。真実は、米国が世界における役割をどう理解し、それをどう体言しているかという点にかかわるものです。
ふたたび現在に戻る前に、わたしは最近の過去を――それは第2次大戦後の米国外交政策のことでありますが――見てみたいと思います。この時期のことを検証することは、わたしたちにとって義務であると、わたしは信じています。それは、(授賞式場という)こうした場所において、つねに許されるべきことではありますが……。
戦後、ソ連や東欧全域で何があったか、誰もが知っています。組織的な暴行、広汎な残虐、独立した思想に対する容赦のない弾圧。すべては完全に記録され、確証されました。
しかし、わたしが言いたいのは、同じ時期、米国が行った数々の犯罪は、表面的に記録されているだけだということです。文書化もされなければ、認められもせず、そもそも犯罪を犯したことさえ気づかれずにいる。これはきちんと決着をつけるべきことであり、そこで明かされるべき真実は、わたしたちの世界がよって立つものに相当な影響を及ぼすものと、わたしは信じています。ソ連という存在によって、一定程度、抑制されていましたが、世界各地での米国の行いは、好き勝手なことができる白紙委任状を自分たちは得ているのだと自ら結論づけていることを、はっきり示しています。
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