神がそのように創りたもうた論
投稿者: venture_2016 投稿日時: 2004/08/05 05:27 投稿番号: [48984 / 118550]
現代物理学は、自然現象を説明する法則,すなわち、自然が「どのようにあるか」を、直感で把握できる,できるだけ「少ない仮説」で「定量的に」導き出し説明することに過ぎない。
現代物理は「ありよう」の探求だなんぞと「定性的に」に説明して、満足しているのは哲学者かアホ文系だけであって、少なくとも現在科学にいそしむ人間は、量を問題にする。まさしく「量の変化が質の変化」を導く思想がその根底にあるわけで、それすら理解していない人間は現在物理を語る資格はないわけ。
で、説明し成功すると、「なぜ」その仮説が成り立つのか、なぜ自然はその仮説を選んだかに行き着くわけで、結局は宇宙を支配する法則(すなわち超越的な神として具現化したもの)によって,そのように作られているとしか言いようがないところに到着する。
たとえば、子供のころ、宇宙には果てがあると知らされても「その先はどうなってるの?」と必ず聞き返す。しかし大人は「そう作られてるの!」としか答えられない。それと同じで、人間は元来、「なぜ」を追求して生きてきてるわけだが、あるところ以上は、神のしわざとして納得せざるをえないわけだ。
ただ、量子論以前は、法則とは決定論的な因果関係そのものであったわけで、因果関係を定量的な尺度も含めて知ること、および原因から結果に行くつく「ありよう、すなわち法則」を知ることがすべてであった。
科学は神を否定し、因果関係で説明しようとしたが、量子論によって、人間の認識の限界が露呈してしまったわけだ。アインシュタインは「神はサイコロを振るわない」と抵抗したが、結局は確率論でしか予測できない、人間の直感とは相容れない世界の存在を人間は知ってしまったわけだ。
一方、厳密で一意な因果関係=論理性によって結論を導く数学の世界においても、数学の体系自体が不完全であり、証明できない不確実なものを必ず内包するとのゲーデルの不完全性定理によって、人間の論理的な思考の限界が白日にさらされてしまったわけだ。
結局「ありよう」を説明しようとしても、説明できない「ありよう」があることに気が付いたわけ。
となると、人間はさらにその根源となる「なぜ」を問いつづけることに価値を見出す。実はこの性癖が人間の認識を広げる原動力であり、これを否定することは人間の知的好奇心を捨てよと同じで決して承服できないわけ。
「なぜ」を問いつづけること自体が、人間の存在意義になわけ。「ありよう」も含めて、「なぜ」を問うことが、人間が限られた時間の中で存在する価値にもなるわけだ。
戦争・テロも同じで「ありよう」だけの追求で満足するなら、「人間は元来、この程度の興奮状態を超えると戦うように作られている。だからうまく身を処せ。戦え」ってことになる。
しかし、「なぜ」戦うのかを突き詰め、確率論的でもいいから因果関係から見て、原因を排除することが重要になってくるわけだ。
定性的な議論を繰り返しても結論には到着しないわけ。
現代物理は「ありよう」の探求だなんぞと「定性的に」に説明して、満足しているのは哲学者かアホ文系だけであって、少なくとも現在科学にいそしむ人間は、量を問題にする。まさしく「量の変化が質の変化」を導く思想がその根底にあるわけで、それすら理解していない人間は現在物理を語る資格はないわけ。
で、説明し成功すると、「なぜ」その仮説が成り立つのか、なぜ自然はその仮説を選んだかに行き着くわけで、結局は宇宙を支配する法則(すなわち超越的な神として具現化したもの)によって,そのように作られているとしか言いようがないところに到着する。
たとえば、子供のころ、宇宙には果てがあると知らされても「その先はどうなってるの?」と必ず聞き返す。しかし大人は「そう作られてるの!」としか答えられない。それと同じで、人間は元来、「なぜ」を追求して生きてきてるわけだが、あるところ以上は、神のしわざとして納得せざるをえないわけだ。
ただ、量子論以前は、法則とは決定論的な因果関係そのものであったわけで、因果関係を定量的な尺度も含めて知ること、および原因から結果に行くつく「ありよう、すなわち法則」を知ることがすべてであった。
科学は神を否定し、因果関係で説明しようとしたが、量子論によって、人間の認識の限界が露呈してしまったわけだ。アインシュタインは「神はサイコロを振るわない」と抵抗したが、結局は確率論でしか予測できない、人間の直感とは相容れない世界の存在を人間は知ってしまったわけだ。
一方、厳密で一意な因果関係=論理性によって結論を導く数学の世界においても、数学の体系自体が不完全であり、証明できない不確実なものを必ず内包するとのゲーデルの不完全性定理によって、人間の論理的な思考の限界が白日にさらされてしまったわけだ。
結局「ありよう」を説明しようとしても、説明できない「ありよう」があることに気が付いたわけ。
となると、人間はさらにその根源となる「なぜ」を問いつづけることに価値を見出す。実はこの性癖が人間の認識を広げる原動力であり、これを否定することは人間の知的好奇心を捨てよと同じで決して承服できないわけ。
「なぜ」を問いつづけること自体が、人間の存在意義になわけ。「ありよう」も含めて、「なぜ」を問うことが、人間が限られた時間の中で存在する価値にもなるわけだ。
戦争・テロも同じで「ありよう」だけの追求で満足するなら、「人間は元来、この程度の興奮状態を超えると戦うように作られている。だからうまく身を処せ。戦え」ってことになる。
しかし、「なぜ」戦うのかを突き詰め、確率論的でもいいから因果関係から見て、原因を排除することが重要になってくるわけだ。
定性的な議論を繰り返しても結論には到着しないわけ。
これは メッセージ 48969 (grokworkdoll さん)への返信です.
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