どさくさ>偉大な力が
投稿者: grokworkdoll 投稿日時: 2004/08/05 01:19 投稿番号: [48969 / 118550]
ベンチャさんは
>なぜなぜと突き詰めてくと、結局、「神がそのように創りたもうた」ってしか思えなくなるわけ。
という。これはアインシュタインが「神」というときのような、ある含みを残して、と解釈してあげるのが(彼に対しては)親切ってものだろうが、ともかくおれは理系なるアイデンティティの彼岸をここに見る。合理主義の彼岸にはかならず「神」という超越者、「世界をかくのごとく創りたもうた」原理、意思が見い出される。宇宙生成の「なぜ」を問うと、最終的には「わからんよ」則ち「神のみぞしる」になってしまうんだ。フリーメーソンのシンボリズムでは「宇宙の偉大なる建築者」としてコンパスと定規を掲げる。神とは理性であり、宇宙はどこまでも理性的、合理的な建築物だという思想だ。この理神論という思想が近代合理精神の基盤となったわけで、理系をもって任ずるベンチャさんが最終的に「神」を持ち出すことの必然性を説明してるともいえる。
翻って、仏教では宇宙生成の「なぜ」を問う事にあまり重きを置かない。「なぜ」あるのかではなく「どのように」あるのかを問うことに専念する。「空」をRelativityと訳したのは誰だったか忘れたけど、とにかく「空」というなにかが存在するのではなく、ものとものの関係性、Relativityが「空」であるとする。ものとものとの関係性が色formを生み、色formとはまた空Relativityに還元される。神仏含め(これ重要)一切を「色即是空 空即是色」のなかに解消、溶解し、分別なく全てが繋がった一則多、多則一の境地に生きる実践哲学が、仏教の本質、エッセンスなんだ。
合理精神がその極北あるいは彼岸に「神」を置くこととを、仏教では「理事融通無礙」という境地として表現する。しかし、大乗仏教の段階論では修行者が到達するべき境地としては不十分で、さらに先、「事事融通無礙」へと至る必要を説く。理を空Relativity、事を色formと大雑把に捉えてもらっていいと思うが、「理事融通無礙」を「色即是空 空即是色」の境地、いわば神と現象がひとつであるという境地とすれば、仏教者はさらにその先の境地として「事事融通無礙」、色即是色とでもいうような世界に跳躍回帰することを目指すんだ。あらゆる観念を超え、ものがものとしてあり、すべてが繋がった世界。回帰と表現したけど、これは一周くるっと回って戻ってきた世界。そこではものはものとしてあるだけでどんな観念も必要としない世界だけど、仏教者はそこに仏性Buddhiの輝きが偏く満ち広がっているのを観る。
なにがいいたかったかというと、理系だ合理だとつっぱってみたところで、最終的に神にいきつくのであれば、神と神の戦争を止める手立ては人間にはないことになる。自殺は自然淘汰かという問題も、関係してくるのではないだろうか。理をブッシュドクトリン、事をアメリカの世界戦略、「理事融通無礙」をパクスアメリカーナとしても面白いかも笑 しかし、仏教者はその問題を超えていこうとする。「なぜ」ではなく「どのように」を考えることから、全ての争いが超克された仏浄土をどこまでも追求する。仏教を実践哲学とする意図もここにある。
どさくさ暇つぶし投稿なので、ベンチャさんもその他の方もさらっと流すか、お手柔らかに笑
ドンファン・マトゥスの「ナワール」と「トナール」も、理と事、空と色に対応させて読むと面白い。ドンファンの(カスタネダの)結論は、戦々兢々たる世界だけどね。おれはドンファンも好きな世界だけど、ブッディズムの到達目標としての「事事融通無礙」への通過点と捉えている。「偉大なちから」とか「神」とか、そういうものを超えて、ただここにこうしてある平和をあきらめたくないんだよね。
まーこうして言葉で語っている時点で、「維摩の一黙」にはかなわない訳ですが、掲示板では不可能なんだよな笑
>なぜなぜと突き詰めてくと、結局、「神がそのように創りたもうた」ってしか思えなくなるわけ。
という。これはアインシュタインが「神」というときのような、ある含みを残して、と解釈してあげるのが(彼に対しては)親切ってものだろうが、ともかくおれは理系なるアイデンティティの彼岸をここに見る。合理主義の彼岸にはかならず「神」という超越者、「世界をかくのごとく創りたもうた」原理、意思が見い出される。宇宙生成の「なぜ」を問うと、最終的には「わからんよ」則ち「神のみぞしる」になってしまうんだ。フリーメーソンのシンボリズムでは「宇宙の偉大なる建築者」としてコンパスと定規を掲げる。神とは理性であり、宇宙はどこまでも理性的、合理的な建築物だという思想だ。この理神論という思想が近代合理精神の基盤となったわけで、理系をもって任ずるベンチャさんが最終的に「神」を持ち出すことの必然性を説明してるともいえる。
翻って、仏教では宇宙生成の「なぜ」を問う事にあまり重きを置かない。「なぜ」あるのかではなく「どのように」あるのかを問うことに専念する。「空」をRelativityと訳したのは誰だったか忘れたけど、とにかく「空」というなにかが存在するのではなく、ものとものの関係性、Relativityが「空」であるとする。ものとものとの関係性が色formを生み、色formとはまた空Relativityに還元される。神仏含め(これ重要)一切を「色即是空 空即是色」のなかに解消、溶解し、分別なく全てが繋がった一則多、多則一の境地に生きる実践哲学が、仏教の本質、エッセンスなんだ。
合理精神がその極北あるいは彼岸に「神」を置くこととを、仏教では「理事融通無礙」という境地として表現する。しかし、大乗仏教の段階論では修行者が到達するべき境地としては不十分で、さらに先、「事事融通無礙」へと至る必要を説く。理を空Relativity、事を色formと大雑把に捉えてもらっていいと思うが、「理事融通無礙」を「色即是空 空即是色」の境地、いわば神と現象がひとつであるという境地とすれば、仏教者はさらにその先の境地として「事事融通無礙」、色即是色とでもいうような世界に跳躍回帰することを目指すんだ。あらゆる観念を超え、ものがものとしてあり、すべてが繋がった世界。回帰と表現したけど、これは一周くるっと回って戻ってきた世界。そこではものはものとしてあるだけでどんな観念も必要としない世界だけど、仏教者はそこに仏性Buddhiの輝きが偏く満ち広がっているのを観る。
なにがいいたかったかというと、理系だ合理だとつっぱってみたところで、最終的に神にいきつくのであれば、神と神の戦争を止める手立ては人間にはないことになる。自殺は自然淘汰かという問題も、関係してくるのではないだろうか。理をブッシュドクトリン、事をアメリカの世界戦略、「理事融通無礙」をパクスアメリカーナとしても面白いかも笑 しかし、仏教者はその問題を超えていこうとする。「なぜ」ではなく「どのように」を考えることから、全ての争いが超克された仏浄土をどこまでも追求する。仏教を実践哲学とする意図もここにある。
どさくさ暇つぶし投稿なので、ベンチャさんもその他の方もさらっと流すか、お手柔らかに笑
ドンファン・マトゥスの「ナワール」と「トナール」も、理と事、空と色に対応させて読むと面白い。ドンファンの(カスタネダの)結論は、戦々兢々たる世界だけどね。おれはドンファンも好きな世界だけど、ブッディズムの到達目標としての「事事融通無礙」への通過点と捉えている。「偉大なちから」とか「神」とか、そういうものを超えて、ただここにこうしてある平和をあきらめたくないんだよね。
まーこうして言葉で語っている時点で、「維摩の一黙」にはかなわない訳ですが、掲示板では不可能なんだよな笑
これは メッセージ 48959 (kumeruoukoku さん)への返信です.
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