古くからの論争…所謂「学派の争い」
投稿者: messi19 投稿日時: 2008/05/15 22:53 投稿番号: [112138 / 118550]
まあ、集合の記号を使わなくても、19世紀の末から延々続けられた論争で、比較的古い時代、絶対的応報論者が「応報刑でも予防刑の要素を含んでいるので、殊更予防刑などと言う必要が無い」と言った事は歴史的事実としてある。(オット…一行で済んでしまった)
ここで19世紀以来の学説の流れと少しだけ死刑廃止論に触れておこう…
【刑罰論の変遷】
さて、刑罰論に於いて、応報刑を採るか、予防論に基づく刑罰を採るかの議論は19世紀後半から前世紀初頭にかなり激しく戦わされた。もちろん、アカデミックな議論故に、相手を罵倒するようなことはなかったであろうが(笑)。
応報刑を主とする考え方を古典派、目的刑を主とする学派を近代派と言った。特に、応報刑を絶対視するビルクマイヤーの考えなどは妥協を許さぬものであったが、目的刑を主張するリストなどは、「立法は妥協の産物」という至極もっともな主張を展開し、やがて、それらの対立は収束へ向かった。
結果的には、古典派を基盤とした折衷説や分配説が妥協の産物として生まれた・・・というのが戦前の流れである。
その後、ドイツ(ナチス)やソ連においては近代派が主流となる分けで、そこでは、苛烈な保安処分や、死刑判決の連発が生れ、そのような側面を予防的刑罰が持っていることを露呈してしまった。
一方、他のヨーロッパ諸国は、古典派を基盤としつつ、その中に、刑事政策の観点から近代派の主張を浸透させていった。日本でも、古典派と近代派の論争は存在し、現在でも続いているが、どちらかと言えば、「対立を止揚」しようとする傾向にある。なお、この刑罰論は、犯罪論に於ける客観的犯罪論と主観的犯罪論と密接に関係している。
最近は、一般・特別の予防論対応報論と言った対立軸より、実質的犯罪論に基づく議論が活発で、キーワードは「国民の規範意識」である様だ。
最後に、実質的犯罪論に基づく国民の規範意識を簡潔に述べた、早稲田大学の曽根威彦氏の発言を紹介しておこう…
「………日本国内の問題としては、国民の規範意識の強化を求めて刑法の介入の早期化が叫ばれ、国民世論を背景として処罰化・重罰化の動きが進行している。しかし、人間の物質的欲望を満足させるために自ら危険社会を作り出しておきながら、実害の発生を未然に防止するために刑法が早期に介入し厳罰化するというのでは、市民の自衛的学習を踏まえた社会の自律的規制を損ない、犯罪者の社会復帰を妨げ、犯罪者と被害者・社会との和解を阻止する結果にもなろう。
今日求められているのは、社会のあるべき近代化を徹底することによって危険を克服する途を模索することであり、何よりも人間の英知によって危険社会を作り出さない努力が大切である。刑法も、「加害者も人間である」とする平等な人間観に立って、対等な市民、立場の互換性を意識しつつ、犯罪者との市民的共生を目指す「ノー・サイド」の精神に立ち返らなければならない。危険社会と呼ばれる今こそ、罪刑法定主義・行為主義・侵害主義・責任主義、そして刑罰法規の最終手段性といった、近代刑法の獲得した形式的保障原則が再確認され、強調される必要がある。戦後60年が経過した現在、日本は刑事法の領域でも戦後最大の岐路に立たされている。刑法レベルでの「警察国家への道か市民国家への道か」という選択は、刑法研究者にとっても決して避けては通れない問題である」
誠に真っ当な発言である。
【論争と刑罰としての死刑】
この学派の争いと死刑制度の関係であるが、予防説(近代派)を主張しようと、応報論を展開しようと、死刑制度を存続させることも出来るし、廃止することもできると言うことだ。面白いのは、我が国において、行為者の人格責任論を取り入れながらも、なお、古典派の代表選手とも言える法学者の団藤重光氏が、死刑廃止論者であると言うことだ。
ここで19世紀以来の学説の流れと少しだけ死刑廃止論に触れておこう…
【刑罰論の変遷】
さて、刑罰論に於いて、応報刑を採るか、予防論に基づく刑罰を採るかの議論は19世紀後半から前世紀初頭にかなり激しく戦わされた。もちろん、アカデミックな議論故に、相手を罵倒するようなことはなかったであろうが(笑)。
応報刑を主とする考え方を古典派、目的刑を主とする学派を近代派と言った。特に、応報刑を絶対視するビルクマイヤーの考えなどは妥協を許さぬものであったが、目的刑を主張するリストなどは、「立法は妥協の産物」という至極もっともな主張を展開し、やがて、それらの対立は収束へ向かった。
結果的には、古典派を基盤とした折衷説や分配説が妥協の産物として生まれた・・・というのが戦前の流れである。
その後、ドイツ(ナチス)やソ連においては近代派が主流となる分けで、そこでは、苛烈な保安処分や、死刑判決の連発が生れ、そのような側面を予防的刑罰が持っていることを露呈してしまった。
一方、他のヨーロッパ諸国は、古典派を基盤としつつ、その中に、刑事政策の観点から近代派の主張を浸透させていった。日本でも、古典派と近代派の論争は存在し、現在でも続いているが、どちらかと言えば、「対立を止揚」しようとする傾向にある。なお、この刑罰論は、犯罪論に於ける客観的犯罪論と主観的犯罪論と密接に関係している。
最近は、一般・特別の予防論対応報論と言った対立軸より、実質的犯罪論に基づく議論が活発で、キーワードは「国民の規範意識」である様だ。
最後に、実質的犯罪論に基づく国民の規範意識を簡潔に述べた、早稲田大学の曽根威彦氏の発言を紹介しておこう…
「………日本国内の問題としては、国民の規範意識の強化を求めて刑法の介入の早期化が叫ばれ、国民世論を背景として処罰化・重罰化の動きが進行している。しかし、人間の物質的欲望を満足させるために自ら危険社会を作り出しておきながら、実害の発生を未然に防止するために刑法が早期に介入し厳罰化するというのでは、市民の自衛的学習を踏まえた社会の自律的規制を損ない、犯罪者の社会復帰を妨げ、犯罪者と被害者・社会との和解を阻止する結果にもなろう。
今日求められているのは、社会のあるべき近代化を徹底することによって危険を克服する途を模索することであり、何よりも人間の英知によって危険社会を作り出さない努力が大切である。刑法も、「加害者も人間である」とする平等な人間観に立って、対等な市民、立場の互換性を意識しつつ、犯罪者との市民的共生を目指す「ノー・サイド」の精神に立ち返らなければならない。危険社会と呼ばれる今こそ、罪刑法定主義・行為主義・侵害主義・責任主義、そして刑罰法規の最終手段性といった、近代刑法の獲得した形式的保障原則が再確認され、強調される必要がある。戦後60年が経過した現在、日本は刑事法の領域でも戦後最大の岐路に立たされている。刑法レベルでの「警察国家への道か市民国家への道か」という選択は、刑法研究者にとっても決して避けては通れない問題である」
誠に真っ当な発言である。
【論争と刑罰としての死刑】
この学派の争いと死刑制度の関係であるが、予防説(近代派)を主張しようと、応報論を展開しようと、死刑制度を存続させることも出来るし、廃止することもできると言うことだ。面白いのは、我が国において、行為者の人格責任論を取り入れながらも、なお、古典派の代表選手とも言える法学者の団藤重光氏が、死刑廃止論者であると言うことだ。
これは メッセージ 112123 (t_ohtaguro_2 さん)への返信です.
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