聖書の真義2
投稿者: battamama 投稿日時: 2005/03/27 06:42 投稿番号: [409 / 1657]
先に述べた「悪人に手向かうな」という言葉は、「悪に抗するな」とも表現される。
これを、もっと噛み砕くならば、「悪と同調するな」という意味になる。
つまり、右の頬を打たれた時に刃向かうならば、悪と同等となってしまう。よって、報復するのではなく、左の頬も差し出すごとく受容せよという意味だろう。
ここで云う「悪」とは、現実社会の悪人や悪業を意味すると同時に、それを支配している霊的「悪・闇」の世界を意味する。
「悪(闇)との闘い」これの凝縮が、イエスの荒野の40日間の試みだ。マルコの福音書1章13節「イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。」とある。
文字通り、40日間イエスは断食をして瞑想に浸った。
しかし、これにはもう少し深い意味がある。
これはマタイ福音書7章13節の以下の言葉に繋がる。
「狭き門より入れ。なぜならば、滅びへと導く門は広く、その道は広大である。そして、そこを通って入って行く者は多い。しかし、命へと導く門はなんと狭く、その道はなんと細いことか。そしてそれを見いだす者はわずかである」
いわゆる凡夫の進む道と、求道者の進む道の厳然たる違いを述べているのだ。
求道者の歩く道は「茨の道」だと云われる。
「荒野の悪魔の試み」は、求道者がその道の途上において、必ず通らなくてはならない「関門」なのである。
つまりは「試練」であり、通過儀礼(イニシエーション)である。
この通過儀礼の途上には、地水風火とも云われる肉体の浄化、心の浄化、精神の浄化、魂の浄化の為の様々の艱難辛苦が憚っている。
このような試練に遭っている時期を、「荒野のサタンの試み」という形で象徴的に表現している。この荒野での試練は「火の洗礼」の時である。
自らの煩悩との闘いであり、その煩悩を焼き尽くす浄化の道のりである。求道者にとって、最もその浄化に膨大な時を有する艱難辛苦の時である。
※これも私の体験と、直観による解釈である。
これで、二度コケタやろ。笑
これは メッセージ 408 (battamama さん)への返信です.
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