文革の死亡者数2 武闘
投稿者: flwsemi 投稿日時: 2005/02/16 15:57 投稿番号: [24260 / 66577]
1967年から68年にかけての武闘は、文革の第二波である。
1967年1月26日の新疆、石河子事件が全国武闘のはじめであった。
双方の死傷者は100余人。その後、各地に武闘は広がり、陝西省勉県武闘では、死亡85人。そのうち撲殺が47人。武器による死亡が12人、軍用車両による死亡が13人、武闘中高圧電源にふれて死亡1人、武闘に参加していない民衆の死亡3人。蒲城県では、双方並びに、一般民衆の死亡は34人。市内の民家焼失2万。安康県の武闘では、家屋破壊3300、死亡784人。
山西武闘では、軍需工場があったため長治地区が最も激烈であった。数万の民兵が火薬庫を襲い、軍が武器で応戦した。即死200人、負傷数百。総数は未定。
ただ一度の武闘で、最も多くの死傷者をだしたのは、四川瀘州。死者2000人、障害者8000人。
浙江省(山乗)県では双方の戦死が191人。寧夏では、1967年8月、軍による青銅峡地区鎮圧で、死傷者100人。浙江空五軍、陸軍第二十軍は粛山、富陽両県の武装鎮圧をし、粛山で死者27人。富陽で死者135人、負傷319人。家屋焼失は1200戸。
文革中の民衆組織は異端組織として、当局の残酷な鎮圧にあった。
雲南の民衆組織には軍が機銃掃射をし、20分で数千人が殺された。
捕虜虐待も武闘中の大きな特徴で、この時期の死亡者の多くは捕虜虐待による。河北省雄県の三十八軍の一派は捕虜を鉄線に串刺しにし、市街を回ったあと、銃殺。陝西省安康県の武闘中、殺された捕虜は286人、自殺20人。槍、刀、銃、石、絞殺、さらに手榴弾による爆死。生き埋め13人。
江西省宣豊県の一派は、高県の武闘で4人の死者をだした。その追悼会場で、高県から来た一般人を3名以上銃殺した。
この時期全国の死亡者は30万から50万になる。
これは メッセージ 24259 (flwsemi さん)への返信です.
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