文革の死亡者数3 清隊
投稿者: flwsemi 投稿日時: 2005/02/16 15:58 投稿番号: [24261 / 66577]
1968年から69年は「清隊」つまり「階級の隊列をきちんと整理する」時期であった。文革中最も死者の多かった時期である。
全国の二千余県で、一県あたり平均100人前後が死亡している。たとえば、黒竜江省賓県では、死亡143人、負傷32人。200人以上死亡した県もかなりあって上海川沙県では、5063人が逮捕され、236人が死亡。上海宝山県では1702人が捕まり、334人死亡。逆に人口が少ない県、たとえば国境に近い愛暉県では1500人が捕まり、65人が死亡している。
人口およそ2万の人民公社を単位にすると、死者はおよそ数十人。
上海奉賢県新寺人民公社では91人が逮捕、うち48人が批判を受け、11人が死亡。広西省扶綏県昌平公社では死亡21人。吉林省延吉県では、国民党や朝鮮スパイの嫌疑で人口が110人の樺田生産大隊では44人が逮捕され、うち41人が死傷した。
通常は革命委員会がこの運動の執行者だったが、遼寧省台安県の革命委員会は、拷問器具を1288人に使い、135人死亡。43人が投獄。多くは障害者となった。遼寧省の凌源県では「国民党反共救国団」913人が逮捕され、25人死亡。51人が障害者となった。
江西省万年県でも、さまざまな道具、拷問法が採用され、全県での死亡者214人。
山西省郷寧県の乱闘では26人死亡、50人が障害者。黒竜江省大慶油田では、
1968年5月に革命委員会が成立。4月の自殺者15人。5月、6月の自殺者36人。死亡7人。
技術者は当初文革の対象ではなかったが「文革は国共内戦の継続」という毛沢東の指示後、国民党時代の技術者が対象となった。北京27車両工場では、1949年以前に技術者となった900人が審査を受け、14人が自殺。甘粛省玉門油田は国民党から共産党が受け継いだ時点で、満18歳だった者が対象となり、9人の幹部、8人の技術者が死亡。数百人が服毒のため障害が残ったり、精神異常となった。
1968年1月21日、雲南省委書記が国民党スパイの嫌疑で逮捕。その組織下にあったとされた138万人が巻き添えになり、1万7000人が死亡。6万1000人が障害者となった。昆明地区だけでも、死者1473人、障害者9661人。1975年の統計では、監禁された者30万人。そのうち3万7000人が死亡。
冀東では国民党が組織されたとして、8万人が巻き添えになり、3000人が死亡した。
核武器研究院所属の221工場と核燃料採掘鉱区では、40人が収監、4000人が監禁された。全工場で59人が自殺、300人が障害者。精神異常100人。
1968年2月、江青らは天津市の公安局を反革命だとして、1200人の警官を審査、44人死亡。
内モンゴル人民革命党は1924年成立。国民党の掃討によって消滅したが、1945年に復活。しかし、共産党は1946年活動停止を指示。文革中はこの党を排除するため、内モンゴルの34万6000人が審査、監禁。4分の3はモンゴル族。障害者8万7180人。死亡1万6222人。(一説に死者10万人を超えるといわれるが、疑問。)
この時期の死亡者は50万。
全国の二千余県で、一県あたり平均100人前後が死亡している。たとえば、黒竜江省賓県では、死亡143人、負傷32人。200人以上死亡した県もかなりあって上海川沙県では、5063人が逮捕され、236人が死亡。上海宝山県では1702人が捕まり、334人死亡。逆に人口が少ない県、たとえば国境に近い愛暉県では1500人が捕まり、65人が死亡している。
人口およそ2万の人民公社を単位にすると、死者はおよそ数十人。
上海奉賢県新寺人民公社では91人が逮捕、うち48人が批判を受け、11人が死亡。広西省扶綏県昌平公社では死亡21人。吉林省延吉県では、国民党や朝鮮スパイの嫌疑で人口が110人の樺田生産大隊では44人が逮捕され、うち41人が死傷した。
通常は革命委員会がこの運動の執行者だったが、遼寧省台安県の革命委員会は、拷問器具を1288人に使い、135人死亡。43人が投獄。多くは障害者となった。遼寧省の凌源県では「国民党反共救国団」913人が逮捕され、25人死亡。51人が障害者となった。
江西省万年県でも、さまざまな道具、拷問法が採用され、全県での死亡者214人。
山西省郷寧県の乱闘では26人死亡、50人が障害者。黒竜江省大慶油田では、
1968年5月に革命委員会が成立。4月の自殺者15人。5月、6月の自殺者36人。死亡7人。
技術者は当初文革の対象ではなかったが「文革は国共内戦の継続」という毛沢東の指示後、国民党時代の技術者が対象となった。北京27車両工場では、1949年以前に技術者となった900人が審査を受け、14人が自殺。甘粛省玉門油田は国民党から共産党が受け継いだ時点で、満18歳だった者が対象となり、9人の幹部、8人の技術者が死亡。数百人が服毒のため障害が残ったり、精神異常となった。
1968年1月21日、雲南省委書記が国民党スパイの嫌疑で逮捕。その組織下にあったとされた138万人が巻き添えになり、1万7000人が死亡。6万1000人が障害者となった。昆明地区だけでも、死者1473人、障害者9661人。1975年の統計では、監禁された者30万人。そのうち3万7000人が死亡。
冀東では国民党が組織されたとして、8万人が巻き添えになり、3000人が死亡した。
核武器研究院所属の221工場と核燃料採掘鉱区では、40人が収監、4000人が監禁された。全工場で59人が自殺、300人が障害者。精神異常100人。
1968年2月、江青らは天津市の公安局を反革命だとして、1200人の警官を審査、44人死亡。
内モンゴル人民革命党は1924年成立。国民党の掃討によって消滅したが、1945年に復活。しかし、共産党は1946年活動停止を指示。文革中はこの党を排除するため、内モンゴルの34万6000人が審査、監禁。4分の3はモンゴル族。障害者8万7180人。死亡1万6222人。(一説に死者10万人を超えるといわれるが、疑問。)
この時期の死亡者は50万。
これは メッセージ 24260 (flwsemi さん)への返信です.
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