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台湾人の独立精神

投稿者: twaptng 投稿日時: 2004/10/11 12:48 投稿番号: [13604 / 66577]
日本の敗戦後、国民党が独裁政治を始めるにあたって行った1947年の大弾圧「228事件」は、台湾人が今も恨みに思っている事件だが、その時に殺された人は5千−1万人と言われている。日本軍は「善政」といわれる台湾統治を始めるにあたって、それより多い人数を殺していることになる。

  このような経緯を見れば、「日本は台湾で善政をした」という主張は、日本人どうしの会話の中では許されるとしても、日本人が台湾人に向かって言うべき言葉としては、失礼にあたる。真の「愛国者」とは、思想の右左にかかわらず、自分の国を愛するだけでなく、他の国の人の愛国心も尊重できる人であろう。

▼後藤新平の善政は何のため?

  台湾の人々の独立心は、日本統治が始まってかなり経ってからも続いていた。その象徴は、日本の統治開始から35年後の1930年(昭和5年)に起きた「霧社事件」である。台湾中央部の山岳地帯の村、霧社で開かれた地域の運動会の会場を、先住民族(アタイヤル族)の武装組織が襲撃し、日本人だけを選び出して100人あまりを殺害した。

  台湾総督府は先住民に対する同化政策を続けており、霧社はそのモデル地区であったが、先住民の人々は表向きは同化政策を受け入れるように見せて、実は総督府に対する憎しみを持ち続けていたことが、この事件からうかがえる。

  そもそも、台湾総督府で「善政」を行ったとされる後藤新平の政策も、台湾人のために行ったのではなく、台湾で日本がより多くの収益を挙げるために行ったことである。

▼鄭成功に始まる台湾独立

  日本軍が台湾を占領するにあたって、台北など北部地方での抵抗より、高雄や台南など南部地方における抵抗の方が激しかったことは、「鄭成功」に由来する部分があると思われる。鄭成功は日本では、江戸時代の作家である近松門左衛門が、南海貿易の密輸商人に取材して書いた人形浄瑠璃「国性爺合戦」の主人公「和藤内三官」として知られている。

  鄭成功は17世紀、台湾南部を拠点に中国の沿岸部を荒らしていた海賊の親分で、日本が鎖国を始める直前の時代に、中国福建省出身の海賊だった父(鄭芝龍)と、日本の九州・平戸の武家の娘(田川マツ)との間に生まれている。当時の九州と琉球、台湾、福建などとの間は、海賊とも商人とも呼べる人々が行き交っていた。

  鄭成功は、台湾を拠点にして中国の明王朝を再興しようとした。明は、満州から攻め込んできた清王朝に圧されて崩壊したが、その前に鄭成功に王朝の復興を依頼した。北方の王朝である清は、海軍力が弱かった。半面、明は揚子江より南を拠点とする南方(江南)の王朝であり、南海に遠征艦隊を派遣するなど、海との縁が深かった。そのため明は、海軍力で清に反攻しようと、鄭芝龍・鄭成功父子に頼った。

  このころ台湾南部は、今の台南を中心にオランダが植民地化を進めていた。一帯には、福建省から海峡を渡ってきた開拓民たちが住み始めていた。開拓民は1652年、オランダによる小作料の徴収に反発して一揆を起こしたが、その背後にいたのが鄭芝龍だった。その後、鄭芝龍は清朝によって殺されるが、鄭成功は海軍を率いて台南にあったオランダの砦を攻め落とし、台湾に明朝復興の拠点を作った。

  中国の人々の大多数は漢民族であり、明は漢民族の王朝だったが、清は外来の満州族の王朝である。そのため明朝復興は、漢民族が中国の自治を取り戻すという「大義」もあり、開拓民の中には鄭成功を支持した人が多かった。

  鄭氏の拠点は約30年後、清の軍隊に攻められて陥落するが、その後も「鄭成功」と「明朝復興」の合言葉は台湾の開拓民の間に残り、清朝時代を通じて反乱が起きるたびに「明朝復興」が叫ばれた。「鄭成功」は、台湾の暴力団(黒社会)の人々には、任侠道の原点として認識されている。
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