北朝鮮

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李朝孝中間報告(八重七重氏より)6

投稿者: lilasnosakukoro2 投稿日時: 2004/02/26 22:51 投稿番号: [13985 / 44985]
☆投稿制限か掛かりましたので、lilasnosakukoro2として投稿を続けます。リラ本人です。(笑)


  『朝鮮半島実録』は「第十六代   仁祖実録」に言う。
「『丙子胡乱』で朝鮮は、『壬辰倭乱』以後、多少とも修復していた国家紀綱と経済状態とがさらに悪化し、民生の疲弊で民衆からは飢えなどによる恨みの声が高まった。その上、仁祖は三田渡で味あわされた屈辱を耐えることができないまま、反清の色をさらに濃く現す一方、滅びつつある明に対する事大路線を一層強化させた」
  また、先のヘンドリック・ハメルも、『朝鮮幽囚記』で、
「オランダ人ヤン・ヤンスゾーン[ウェルテフレー]は、タルタル人(女真族)が氷を踏んでやって来てこの国を占領した時に、多くの人々が森の中で縊死していたと私たちに語りました」
と述べている。
  前述の時代区分、「成宗1年(1470)から宣祖41年(1607)までが中期で支配体制の動揺期、光海君1年(1608)から哲宗11年(1860)までが後期で支配体制の解体期(再編期)」のちょうど中間で、李朝とその支配する朝鮮半島は、激動の期間を迎えていたのである。ではそれらの後、1636年の丙子胡乱から1811年の洪景来の乱までの間(「支配体制の解体期(再編期)」に相当する)は、いかなる社会情勢であったのだろうか?

  《4》李王朝後期の社会
  この16世紀半ばから19世紀初頭の朝鮮半島の状態に関しては、2つの見方が存在しているようだ。
  一つは、孝宗(在位1649〜1659年)、粛宗(在位1661〜1720年)、英祖(在位1724〜76年)らの政治手腕によりようやく辰倭乱から始まった戦争被害から立ち直り、安定期を迎えていた、というもの。これは、『朝鮮王朝実録』の朴永圭氏の立場である。
  また、ここまでの高い評価はなされていないが、
「この時期(17世紀後半)には戦乱によって荒廃した農耕地もほとんど復旧され、農法の改良によって生産力も上がった。そして市場の発達と貨幣の全国的な流通によって商品貨幣経済が大きく発展した」
と記す『世界の教科書シリーズ1   【新版】韓国の歴史』もある。
  他方では、
「一六世紀から一七世紀にかけ、朝鮮半島は南の日本、北の清から、前後五〇年間四回にわたり侵略され掠奪された。人々離散し国土は荒廃した。貴重な文化財は戦火に焼け灰塵となった。産業も萎縮した。征服者たちは特産物の貢納を強要した。なまじ産業があるから掠奪される。そのため政府は特産物を奨励するどころか、むしろ貢納の口実になるからといって禁止抑圧した。このような状況の下では経済は発展しない。外勢の侵略を恐れて道路も整備しない。かたくなに鎖国をまもり、世界の大勢から逃避しようとした。
  同じころ日本では、諸藩が先を争って物産を奨励した。城下町が形成され、参勤交代のため道路も整備された。諸国の物産は全国的に流通した。鎖国といっても長崎から海外情勢が伝わっていた。その蓄積が開国後の日韓両国の発展の差として現われた」(前述『韓国の族閥・軍閥・財閥』)
と記す池東旭氏らの見解がある。
  果たして、これら両極端の見方のどちらが、より実態に近いのか。
  ここで、4人の現場証人ともいえる人々に登場してもらうこととする。
  最初は、先にも登場している『朝鮮幽囚記』の著者ヘンドリック・ハメルだ。彼は、17世紀後半、日本に向けての航海中に朝鮮半島に漂流し、長らく抑留された経験を著書に記した。1660年の記述に、次のようなものがある。
「この年と翌年は雨が降らなかったので、穀物も他の作物もたいへんな凶作でした。1662年も新しい収穫があるまでそれが続き、何千人という人々が餓死しました。街道は追剥ぎのため通行できなくなり、国王の命令によって旅行者の[安全を保つ]ために厳重に警備されました。それはまた道傍で餓死した人々を葬るためでもあり、また、毎日起こる殺人や強盗を防ぐためでした。いくつかの町や村が掠奪され、国王の倉庫は破られて穀物が運び出されました。しかもその犯人は罪人として捕らえられることはありませんでした。というのはそれは大官の奴隷たちによって行われたからなのです。生き延びていた普通の人々の食料はどんぐり、松の樹皮および野草でした」
「国家および商人の使用する度量衡について   それらは全国を通じて同一です。だが一般の人々や小売商人の間ではひどいごまかしが行われます。一般に売手は実際よりも軽く、小さくはかり、買手は実際よりも重く大きくはかろうとします。そして総督たちがいかに厳重に監視しても、それをやめさせることはできません。というのは各人はおのおのの物指しと秤とを使用するからです」
  これが、17世紀後半の西欧人の目に映った李朝下の朝鮮の姿だった。
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