李朝孝中間報告(八重七重氏より)5
投稿者: lilasnosakukoro 投稿日時: 2004/02/26 22:25 投稿番号: [13984 / 44985]
壬辰倭乱(文禄・慶長の役)は、明軍の出兵で日本側が進軍を阻まれ、更に、朝鮮史上最大の軍事的天才とされる李舜臣の活躍などにより終結する。だが、朝鮮側はこの乱の被害で多大な損害を受け、全面的に立ち直ることは遂に出来なかった、とするのが巷間に流布する通説のようだ。しかし、この説は、またしても私に不可解な感情を与える。年代ばかり列挙して恐縮だが、丁酉再乱(慶長の役)が終わり日本軍が撤収したのは1598年である。繰り返すが、李朝体制が終わりを告げたのは1910年であるから、その間には300年以上の年月が存在しているのだ。300年を持ちながら、李王朝は王国を立て直すことが出来なかったということだろうか?
そしてこの300年間は、前章でほとんど反乱が起きなかった時期、と述べた期間でもある。ほとんど反乱が起きなかったにもかかわらず、300年間日本との戦争がもたらした打撃から立ち直ることが出来なかった程の何か、が、朝鮮半島で起こっていたのだろうか? それを暗示する文章が、池東旭氏の『韓国の族閥・軍閥・財閥』と『朝鮮王朝実録』に記載されている。
「日本軍の侵略に苦しんだばかりではない。救援軍としてきた天朝軍明兵の暴虐と掠奪も日本兵に劣らなかった。恩に着せて掠奪するだけにもっと質が悪かった」(『韓国の族閥・軍閥・財閥』より)
「また、戦乱の際、明軍が支援した結果として、崇明思想がさらに高まり(後略)」(『朝鮮王朝実録』)
(註:『朝鮮王朝実録』の、「壬辰倭乱が、党派争いによる国力の弱化から生じたとの見方も、当時の朝鮮社会と国際情勢を正確に読み取っていない解釈上の間違いと言えよう」に対し、反論を挙げる。日本軍が圧倒的な速度で進軍することが出来たのには、朝鮮民衆の協力もあった。彼らは、日本軍の案内役をつとめたのである。『宣祖実録』25年5月戍条に、「人心怨叛し、倭と同心」と記されているとのこと。また、平壌の役の折には、明軍が朝鮮側を「斬る所の首級半ば皆朝鮮の民、焚溺萬餘、尽く皆朝鮮の民」と問い詰めた程に、日本軍には朝鮮の民衆が多く含まれていたそうである。『日韓・歴史克服への道』下條正男著参照)
《3》異民族への屈服――丁卯・丙子胡乱
丁酉再乱(慶長の役)から31年後の1927年、李朝の王位には仁祖があった。
この王は、先王光海君をクーデターで追放し、即位した。その時大義名分とした中に、「大明事大(明に対して服従する)をしなかった」(『朝鮮王朝実録』)というものがある。光海君は、満州を根拠地とする女真族が明を圧迫し、遂には明に変わる王朝清を建国するに至る動きに対応し、『朝鮮王朝実録』の著者朴永圭氏から、実利的かつ現実的と高い評価を受ける外交姿勢を取ったのだ。だが、仁祖と彼を担いだ西人派グループは、明に対する事大主義(註:朝鮮半島史においては、中国の、主に漢民族王朝を敬い服従することを意味する)路線に固執していた。彼らは、明と女真族(まず後金と称する国を建て、明を滅ぼした後、清と改名した)を秤にかける光海君の中立外交を不服として、クーデターを敢行した、というのが朴氏の見解である。(註:『韓国 堕落の2000年史』の崔基鎬氏の見方も、ほぼ同)
だが、仁祖と彼を取り巻く儒臣達は、大きな国難に遭遇することとなる。1627年の丁卯胡乱(後金による朝鮮侵攻)と、1636年の丙子胡乱(清による朝鮮侵攻)である。李朝は結局、抵抗空しく清に屈服し、仁祖は、三田渡(ソウルの漢江沿岸にある渡し場)で清軍に屈服、清と君臣の義を結ぶ。その上で、王子2人を人質として清に送り、清への上納金を毎年納めること、清が明を討つ時には援軍を送ることなどの条約を締結する。こうして、李朝統治下の朝鮮は、清に服属することとなった。(註:この関係は、1895年に日清戦争で清が日本に破れるまで続く)
そしてこの300年間は、前章でほとんど反乱が起きなかった時期、と述べた期間でもある。ほとんど反乱が起きなかったにもかかわらず、300年間日本との戦争がもたらした打撃から立ち直ることが出来なかった程の何か、が、朝鮮半島で起こっていたのだろうか? それを暗示する文章が、池東旭氏の『韓国の族閥・軍閥・財閥』と『朝鮮王朝実録』に記載されている。
「日本軍の侵略に苦しんだばかりではない。救援軍としてきた天朝軍明兵の暴虐と掠奪も日本兵に劣らなかった。恩に着せて掠奪するだけにもっと質が悪かった」(『韓国の族閥・軍閥・財閥』より)
「また、戦乱の際、明軍が支援した結果として、崇明思想がさらに高まり(後略)」(『朝鮮王朝実録』)
(註:『朝鮮王朝実録』の、「壬辰倭乱が、党派争いによる国力の弱化から生じたとの見方も、当時の朝鮮社会と国際情勢を正確に読み取っていない解釈上の間違いと言えよう」に対し、反論を挙げる。日本軍が圧倒的な速度で進軍することが出来たのには、朝鮮民衆の協力もあった。彼らは、日本軍の案内役をつとめたのである。『宣祖実録』25年5月戍条に、「人心怨叛し、倭と同心」と記されているとのこと。また、平壌の役の折には、明軍が朝鮮側を「斬る所の首級半ば皆朝鮮の民、焚溺萬餘、尽く皆朝鮮の民」と問い詰めた程に、日本軍には朝鮮の民衆が多く含まれていたそうである。『日韓・歴史克服への道』下條正男著参照)
《3》異民族への屈服――丁卯・丙子胡乱
丁酉再乱(慶長の役)から31年後の1927年、李朝の王位には仁祖があった。
この王は、先王光海君をクーデターで追放し、即位した。その時大義名分とした中に、「大明事大(明に対して服従する)をしなかった」(『朝鮮王朝実録』)というものがある。光海君は、満州を根拠地とする女真族が明を圧迫し、遂には明に変わる王朝清を建国するに至る動きに対応し、『朝鮮王朝実録』の著者朴永圭氏から、実利的かつ現実的と高い評価を受ける外交姿勢を取ったのだ。だが、仁祖と彼を担いだ西人派グループは、明に対する事大主義(註:朝鮮半島史においては、中国の、主に漢民族王朝を敬い服従することを意味する)路線に固執していた。彼らは、明と女真族(まず後金と称する国を建て、明を滅ぼした後、清と改名した)を秤にかける光海君の中立外交を不服として、クーデターを敢行した、というのが朴氏の見解である。(註:『韓国 堕落の2000年史』の崔基鎬氏の見方も、ほぼ同)
だが、仁祖と彼を取り巻く儒臣達は、大きな国難に遭遇することとなる。1627年の丁卯胡乱(後金による朝鮮侵攻)と、1636年の丙子胡乱(清による朝鮮侵攻)である。李朝は結局、抵抗空しく清に屈服し、仁祖は、三田渡(ソウルの漢江沿岸にある渡し場)で清軍に屈服、清と君臣の義を結ぶ。その上で、王子2人を人質として清に送り、清への上納金を毎年納めること、清が明を討つ時には援軍を送ることなどの条約を締結する。こうして、李朝統治下の朝鮮は、清に服属することとなった。(註:この関係は、1895年に日清戦争で清が日本に破れるまで続く)
これは メッセージ 13983 (lilasnosakukoro さん)への返信です.
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