李朝孝中間報告(八重七重氏より)4
投稿者: lilasnosakukoro 投稿日時: 2004/02/26 22:18 投稿番号: [13983 / 44985]
なるほど、518年間もの歴史だ。四分割は当然かもしれない。だが、それでも、1469〜1494年の成宗期すら「中期」に含められることへの奇異の念は、依然消えない。いや、私は、表面的な年数に拘り過ぎるのかもしれない。むしろ、その時代の中身を検討すべきなのだろう。まず、「中期」とされる1470〜1607年の期間に注目することとした。そしてこの時期、李朝統治下の朝鮮半島史上の大事件が勃発していることに気付く。
壬辰倭乱、日本史上で文禄・慶長の役と呼ばれる、豊臣秀吉の朝鮮侵攻である。
『朝鮮王朝実録』は言う。
「そして、壬辰倭乱が、党派争いによる国力の弱化から生じたとの見方も、当時の朝鮮社会と国際情勢を正確に読み取っていない解釈上の間違いと言えよう。なぜなら、宣祖の政治的安定のための努力により、当時の社会は明宗時代に比べて比較的安定した状況だったからだ。そのため、壬辰倭乱の根本原因は朝鮮国内で探すよりも、日本の国内状況で探す方が正しいと思われる」「壬辰倭乱が起こるまでの朝鮮は約二百年間、部分的な外侵を除いては、ほとんど戦争のなかった国だった。そのため、朝鮮全域は、戦争に対する備えを怠ってきた」「文化財の焼失もひどかった。景福宮、昌徳宮、昌慶宮などをはじめとする多くの建築物が焼失し、書籍、美術品などが失われ、略奪された」「
また、17世紀後半、朝鮮半島に漂流し長期間抑留された経験を持つオランダ人ヘンドリック・ハメルは、著書『朝鮮幽囚記』の中で記している。
「信仰篤い人々は、かなり昔のこと、日本人がやって来て、彼等の王を殺し、町や村を焼き払ったり、破壊したりした時に(……)と私たちに語りました」
だが一方、次のような記述を持つ書物もある。
「そんなふうで、ああでもないこうでもないといっているうち(註:秀吉の侵攻が現実のものとなるかどうかを巡り、諸臣の意見が紛糾した事態を指す。その根底には、東人派と西人派の党派争いがあった)に秀吉の急襲をうけたのであったが、もうあとの祭。そのときになってにわかに臨海、順和の二王子を咸鏡道や江原道に派して民兵を募ったが、日ごろの施政が施政であったから、誰も容易に腰を上げはしない。そればかりか、そのときはもう京城をおとされ、国王の宣祖は、さらに小西行長軍に平壌からも追われて義州におちのびるという状態になっていた。二人の王子も、咸鏡道で加藤清正の捕虜になってしまった。
李朝の政治、――代々にわたった彼らの党争がいかに民心を離れていたかは、宣祖が京城をでるときの一事をみてもわかる。敵が京城に迫ると宣祖はただちに北方へ難を避けたが、そのとき都民は乱民となって掌隷院を襲って刑曹(司法省)に火を放ち、公私奴婢の文籍を全部焼き払ってしまった。また、宣祖が平壌から義州へ移るときは、民衆はそれに向かって石を投げつけたりした」(前述『朝鮮』より)
また、例の『韓国 堕落の2000年史』では、次のように記されている。
「李朝の朝廷は、今日の日本と同じように、軍人に対する強いアレルギーに支配されていたのだった。国を防衛するよりも、自国軍の存在を警戒したのだ。そのために、李朝は惨憺たる目にあった。
そこで日本軍を迎え撃つといっても、軍事についてまったくの素人でしかない文官の両班が、訓練を欠いた下級の兵士の群を指揮せざるをえなかった。朝鮮軍は軍としての体裁をなしていなかったから、日本軍の前には烏合の衆でしかなかった。有効な抵抗など、できるはずもなかった。そのうえ、日本軍の動きについての情報の判定も、相変わらず党派の主張によって左右された。
日本軍がソウルに迫ったので、宣祖王の一行は四月二十九日の早朝、驟雨のなか、王宮を後にして、ソウルを脱出した。これは建国から二〇〇年目にして初めての出来事だったが、王宮が空っぽになったために、民衆が王宮のなかになだれ込んだ。奴婢を管理する役所である掌隷院や、警察と裁判所に当たる刑曹を始めとする役所にも放火し、財宝をほしいままに掠奪した。
王の一行が落ちていった開城では、王を迎えるべき役人も、すでに逃亡していた。民衆から失政をなじられ、石つぶてがとんでくるありさまだったからだ。
民衆は、王や権力者が責任観念もなく逃げ出し、無力になったのを知って、日頃押さえに押さえてきた敵愾心を、当然のことに燃えあがらせた。
宣祖王は日本軍に追われて、遠く義州まで落ちのびねばならなかった。そのあいだに朝鮮軍は壊走を続けた。しかし、王座を取り巻いていた権力者たちも、国土が廃墟と化しても、反省するところがなかった。そして、すべきことといえば、宗主国である明に、急いで救援を請願するだけだった。明に防衛をすべて委ねていて、他力本願の属国根性しか持てなかったからである」
壬辰倭乱、日本史上で文禄・慶長の役と呼ばれる、豊臣秀吉の朝鮮侵攻である。
『朝鮮王朝実録』は言う。
「そして、壬辰倭乱が、党派争いによる国力の弱化から生じたとの見方も、当時の朝鮮社会と国際情勢を正確に読み取っていない解釈上の間違いと言えよう。なぜなら、宣祖の政治的安定のための努力により、当時の社会は明宗時代に比べて比較的安定した状況だったからだ。そのため、壬辰倭乱の根本原因は朝鮮国内で探すよりも、日本の国内状況で探す方が正しいと思われる」「壬辰倭乱が起こるまでの朝鮮は約二百年間、部分的な外侵を除いては、ほとんど戦争のなかった国だった。そのため、朝鮮全域は、戦争に対する備えを怠ってきた」「文化財の焼失もひどかった。景福宮、昌徳宮、昌慶宮などをはじめとする多くの建築物が焼失し、書籍、美術品などが失われ、略奪された」「
また、17世紀後半、朝鮮半島に漂流し長期間抑留された経験を持つオランダ人ヘンドリック・ハメルは、著書『朝鮮幽囚記』の中で記している。
「信仰篤い人々は、かなり昔のこと、日本人がやって来て、彼等の王を殺し、町や村を焼き払ったり、破壊したりした時に(……)と私たちに語りました」
だが一方、次のような記述を持つ書物もある。
「そんなふうで、ああでもないこうでもないといっているうち(註:秀吉の侵攻が現実のものとなるかどうかを巡り、諸臣の意見が紛糾した事態を指す。その根底には、東人派と西人派の党派争いがあった)に秀吉の急襲をうけたのであったが、もうあとの祭。そのときになってにわかに臨海、順和の二王子を咸鏡道や江原道に派して民兵を募ったが、日ごろの施政が施政であったから、誰も容易に腰を上げはしない。そればかりか、そのときはもう京城をおとされ、国王の宣祖は、さらに小西行長軍に平壌からも追われて義州におちのびるという状態になっていた。二人の王子も、咸鏡道で加藤清正の捕虜になってしまった。
李朝の政治、――代々にわたった彼らの党争がいかに民心を離れていたかは、宣祖が京城をでるときの一事をみてもわかる。敵が京城に迫ると宣祖はただちに北方へ難を避けたが、そのとき都民は乱民となって掌隷院を襲って刑曹(司法省)に火を放ち、公私奴婢の文籍を全部焼き払ってしまった。また、宣祖が平壌から義州へ移るときは、民衆はそれに向かって石を投げつけたりした」(前述『朝鮮』より)
また、例の『韓国 堕落の2000年史』では、次のように記されている。
「李朝の朝廷は、今日の日本と同じように、軍人に対する強いアレルギーに支配されていたのだった。国を防衛するよりも、自国軍の存在を警戒したのだ。そのために、李朝は惨憺たる目にあった。
そこで日本軍を迎え撃つといっても、軍事についてまったくの素人でしかない文官の両班が、訓練を欠いた下級の兵士の群を指揮せざるをえなかった。朝鮮軍は軍としての体裁をなしていなかったから、日本軍の前には烏合の衆でしかなかった。有効な抵抗など、できるはずもなかった。そのうえ、日本軍の動きについての情報の判定も、相変わらず党派の主張によって左右された。
日本軍がソウルに迫ったので、宣祖王の一行は四月二十九日の早朝、驟雨のなか、王宮を後にして、ソウルを脱出した。これは建国から二〇〇年目にして初めての出来事だったが、王宮が空っぽになったために、民衆が王宮のなかになだれ込んだ。奴婢を管理する役所である掌隷院や、警察と裁判所に当たる刑曹を始めとする役所にも放火し、財宝をほしいままに掠奪した。
王の一行が落ちていった開城では、王を迎えるべき役人も、すでに逃亡していた。民衆から失政をなじられ、石つぶてがとんでくるありさまだったからだ。
民衆は、王や権力者が責任観念もなく逃げ出し、無力になったのを知って、日頃押さえに押さえてきた敵愾心を、当然のことに燃えあがらせた。
宣祖王は日本軍に追われて、遠く義州まで落ちのびねばならなかった。そのあいだに朝鮮軍は壊走を続けた。しかし、王座を取り巻いていた権力者たちも、国土が廃墟と化しても、反省するところがなかった。そして、すべきことといえば、宗主国である明に、急いで救援を請願するだけだった。明に防衛をすべて委ねていて、他力本願の属国根性しか持てなかったからである」
これは メッセージ 13982 (lilasnosakukoro さん)への返信です.
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