李朝孝中間報告(八重七重氏より)3
投稿者: lilasnosakukoro 投稿日時: 2004/02/26 22:17 投稿番号: [13982 / 44985]
ここまでお読みくださった方々は、あることにお気付きになっただろうか。それは、以上の反乱のほとんどが、李朝500年の歴史の前半部分に集中している、ということだ。例外は、1728年の李麟佐の乱しかない。これらに、李朝末期の100年間に起こった洪景来の乱以降の幾つかの反乱を加えてたとしても、次のことは言える。
李朝は、前半部分と終末部分以外には、ほとんど反乱を経験しなかった王朝である、と。ならば、518年にもわたるその王朝の大半は、極めて平穏な、安寧に満ちた歴史を展開したのだろうか。だが一方、その王朝が、「理不尽な社会」「おぞましい」などの言葉を、韓国人たる崔基鎬氏から浴びせられているのは先に述べた通りである。これでは、次の疑問が湧くのは当然であろう。
李朝期、特にその中間期とは、如何なる時代であったのか?
《2》「壬辰倭乱」とは、何であったか
李朝の歴史を見る上で、対立する2つの見解を列挙しよう。前者は、それを肯定的に評価しようとする立場。発言者は、『朝鮮王朝実録』の著者朴永圭氏である。
「(『朝鮮王朝実録』を執筆するための)整理作業を進めながら、私をはじめとする多くの人たちが朝鮮時代の社会に対して、非常に間違った視点を持っているということを悟った。言うならば、朝鮮は、私たちが安易に断定しているほどに古臭い社会だったわけではなく、大変な情熱と重みとが内在する深みのある世界だったことがうっすらと分ってきたのだ」
朴氏はこの立場に基づき、自著の中で、李朝時代の政治・社会・文化に対し、出来得る限り肯定的な評価を下している。このような見解は、国定韓国高等学校歴史教科書にも通じる。
この朴氏の見解とは異なる見方を表わす代表として、2つを挙げよう。
「こうしてわれわれは三国時代、統一新羅、高麗、李朝と朝鮮の文化・科学をみてくると、それらのいっさいが総合された形でいっせいに開花・発展したのは李朝の初期、一五世紀であったことがわかる。この時期は老いた高麗にとってかわった李朝のみずみずしい建設期で、その他政治、経済等あらゆるものが上昇期にあったが、しかし、同時にこの時期は李朝のいわゆる勲旧派にたいして、地方の士林が擡頭する時期でもあった。そして一六世紀の、あの熾烈な党争を準備していたのである」(『朝鮮』金達寿著)
「一般に、政治的活気とか進歩、革命といわれるものは、朝鮮には存在しない。人民は無視され、彼らのいかなる意見も許されない。権力を一手に掌握している貴族階級(註:両班層を指す)が人びとに関心を向けるのは、ただ彼らを抑圧してできるだけ多くの富をしぼり取ろうとするときだけである。貴族たちは、いくつかの派閥に分かれ、互いに執拗な憎悪をぶつけ合っている。しかし、彼らの党派は、なんら政治的、行政的原理を異にするものではなく、ただ尊厳とか、職務上の影響力のみを言い争っている大義名分だけのものである。朝鮮における最近(註:1860〜70年を指す)三世紀の期間は、ただ貴族層の血なまぐさい不毛の争いの単調な歴史にすぎなかった」(『朝鮮事情』シャルル・ダレ著)
さてこれから、李朝期に対する評価としてどちらが妥当なのかを検討しなければならない、ということとなろう。そのことを始めるにあたって、手掛かりとなる文言を、私は前記の『朝鮮王朝実録』「第九代 成宗実録」の中に発見した。
「朝鮮中期、政界のもっとも大きな変化は中央政界に士林勢力が進出したことだ」
朝鮮中期。だが、成宗の統治期間は1469〜1494年だ。1392年の建国から、せいぜい100年といったところ。500年間の李朝のうちでは、ようやく1/5を通過したばかりだ。それでもう、「中期」なのだろうか? 王朝開始より100年前後で既に「中期」と位置付けられるのならば、それ以降はいったい何と呼ばれるのが相応しいのだろう?
この疑問に対する一応の疑問は、やがて解けた。李王朝の統治区分は、通常四分割されるらしい。太祖(建国者李成桂)の初年(1391)から睿宗1年(1469)までが初期で、支配体制の確立期とする。成宗1年(1470)から宣祖41年(1607)までが中期で支配体制の動揺期、光海君1年(1608)から哲宗11年(1860)までが後期で支配体制の解体期(再編期)、哲宗12年(1861)から純宗4年(1910)までが末期で朝鮮近代化期と区分される。(註:『朝鮮王朝後期史研究』 西川孝雄著参照)
李朝は、前半部分と終末部分以外には、ほとんど反乱を経験しなかった王朝である、と。ならば、518年にもわたるその王朝の大半は、極めて平穏な、安寧に満ちた歴史を展開したのだろうか。だが一方、その王朝が、「理不尽な社会」「おぞましい」などの言葉を、韓国人たる崔基鎬氏から浴びせられているのは先に述べた通りである。これでは、次の疑問が湧くのは当然であろう。
李朝期、特にその中間期とは、如何なる時代であったのか?
《2》「壬辰倭乱」とは、何であったか
李朝の歴史を見る上で、対立する2つの見解を列挙しよう。前者は、それを肯定的に評価しようとする立場。発言者は、『朝鮮王朝実録』の著者朴永圭氏である。
「(『朝鮮王朝実録』を執筆するための)整理作業を進めながら、私をはじめとする多くの人たちが朝鮮時代の社会に対して、非常に間違った視点を持っているということを悟った。言うならば、朝鮮は、私たちが安易に断定しているほどに古臭い社会だったわけではなく、大変な情熱と重みとが内在する深みのある世界だったことがうっすらと分ってきたのだ」
朴氏はこの立場に基づき、自著の中で、李朝時代の政治・社会・文化に対し、出来得る限り肯定的な評価を下している。このような見解は、国定韓国高等学校歴史教科書にも通じる。
この朴氏の見解とは異なる見方を表わす代表として、2つを挙げよう。
「こうしてわれわれは三国時代、統一新羅、高麗、李朝と朝鮮の文化・科学をみてくると、それらのいっさいが総合された形でいっせいに開花・発展したのは李朝の初期、一五世紀であったことがわかる。この時期は老いた高麗にとってかわった李朝のみずみずしい建設期で、その他政治、経済等あらゆるものが上昇期にあったが、しかし、同時にこの時期は李朝のいわゆる勲旧派にたいして、地方の士林が擡頭する時期でもあった。そして一六世紀の、あの熾烈な党争を準備していたのである」(『朝鮮』金達寿著)
「一般に、政治的活気とか進歩、革命といわれるものは、朝鮮には存在しない。人民は無視され、彼らのいかなる意見も許されない。権力を一手に掌握している貴族階級(註:両班層を指す)が人びとに関心を向けるのは、ただ彼らを抑圧してできるだけ多くの富をしぼり取ろうとするときだけである。貴族たちは、いくつかの派閥に分かれ、互いに執拗な憎悪をぶつけ合っている。しかし、彼らの党派は、なんら政治的、行政的原理を異にするものではなく、ただ尊厳とか、職務上の影響力のみを言い争っている大義名分だけのものである。朝鮮における最近(註:1860〜70年を指す)三世紀の期間は、ただ貴族層の血なまぐさい不毛の争いの単調な歴史にすぎなかった」(『朝鮮事情』シャルル・ダレ著)
さてこれから、李朝期に対する評価としてどちらが妥当なのかを検討しなければならない、ということとなろう。そのことを始めるにあたって、手掛かりとなる文言を、私は前記の『朝鮮王朝実録』「第九代 成宗実録」の中に発見した。
「朝鮮中期、政界のもっとも大きな変化は中央政界に士林勢力が進出したことだ」
朝鮮中期。だが、成宗の統治期間は1469〜1494年だ。1392年の建国から、せいぜい100年といったところ。500年間の李朝のうちでは、ようやく1/5を通過したばかりだ。それでもう、「中期」なのだろうか? 王朝開始より100年前後で既に「中期」と位置付けられるのならば、それ以降はいったい何と呼ばれるのが相応しいのだろう?
この疑問に対する一応の疑問は、やがて解けた。李王朝の統治区分は、通常四分割されるらしい。太祖(建国者李成桂)の初年(1391)から睿宗1年(1469)までが初期で、支配体制の確立期とする。成宗1年(1470)から宣祖41年(1607)までが中期で支配体制の動揺期、光海君1年(1608)から哲宗11年(1860)までが後期で支配体制の解体期(再編期)、哲宗12年(1861)から純宗4年(1910)までが末期で朝鮮近代化期と区分される。(註:『朝鮮王朝後期史研究』 西川孝雄著参照)
これは メッセージ 13981 (lilasnosakukoro さん)への返信です.
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