pas maljp女史へ(キリスト教)
投稿者: yaenanae01 投稿日時: 2004/01/25 01:00 投稿番号: [12358 / 44985]
>祭壇脇の勇壮な大天使像が踏み付けている悪魔に「KAMI」「HOTOKE」と彫り込んであるのには怒りを覚えるよりも「余りに子供地味たやり方」に笑ってしまった。
(中略)
>どこかの国ならヒステリーを起こして「削れ」ぐらいの事は良いそうだが、私は歴史の一こまとしてしっかり保存して欲しいと思う。
>磨耗や風化でこれ以上文字がかき消えない様に配慮して欲しいくらいだ。
それは、絶対大切に保存すべきだ。日本から、修復技術者(何というのでしたかな?)を派遣してもよい位だ。
>普通の人は「自分に嘘をつく事」「他人に嘘をつく事」ぐらいだがキリスト者は時として「神に嘘をつく事」をせねばならず、それが思考を深くしていると言うのだ。
>これは「告悔」の習慣の無いプロテスタントの学校で思春期を過ごした私にも思い当たる事がある。
>プロテスタントでは祭司の役割がカトリックに比べて小さくなる代わり、信者にも同様の役目を割り振る事が多い。
>信者にも「説教」をやらせるのだ。学校においてもそれは同じである。
>と言うより、信者でもない生徒にもそれをやらせる。
>私達は二ヶ月に一回位のペースで「礼拝の司会兼説教当番」をやったものである。
>理解していただけるかどうか解らないが、これは大変な事なのだ。
>私達は二ヶ月に一回位のペースで「回心(改心ではない)」を繰り返さねばならなかったから。
女史の理論武装能力の淵源は、プロテスタント派にありましたか。
私がよく知っているのもプロテスタントの一派だが、こちらは女史の母校よりは、教義的に緩やかのようだ。(その代わり、別種の問題があった)こちらで、女史の言われる回心に当たるのは、「信仰告白」だろう。これは、一定の形も、要求されるような内容もなく、素直に自分の思うところを発表すればよかった。だが、それでも、自分の番が迫ってくれば、皆気重になっていたようだ。
>こう言った学校生活による実感として私はキリスト教が諸思想・諸哲学を産んだ背景には「歴史的要因・宿命」よりも信者自身に常に自らの「罪」と向き合わせようとする教理と礼拝・懺悔などの典礼様式、それに縛られた信者の日常生活の在り方がより素直に強く働いてい・
その、自らの内面に極端に目を向けさせたがる傾向こそ、邪教視されていたローマ時代を通じて培われたキリスト教の傾向。そして、それに相応しいように、諸様式が整備され、今度は、それに、幹部も、一般信者も拘束されるようになった。悪循環が、始まったのだ。
その意味では、私は、イスラムの方が、人間というものに対して、乾いた優しさを本来は持っていたと思う。「汝の兄弟の妻を姦淫の目で見るだけで、姦淫の罪を犯したのと同じである」とまで精神的潔癖を求めたキリスト教に対し、どうせ異性を見たら欲情するのが人間なのだから、だったら、4人までは正式の妻を持つことを許してしまえ、と割り切ったのがイスラムだ。(もちろん、正妻を4人まで、としたのは、本来は、戦争未亡人救済のためなのだが)イスラムは、「人間の精神」を規制したのではなく、「人間の行為」を規制して、それに対する「神の要求する範囲」を明確にしたのだ。つまり、「心の中でどう思うか」には、拘らなかったということ。本来のイスラムは、ね。
(中略)
>どこかの国ならヒステリーを起こして「削れ」ぐらいの事は良いそうだが、私は歴史の一こまとしてしっかり保存して欲しいと思う。
>磨耗や風化でこれ以上文字がかき消えない様に配慮して欲しいくらいだ。
それは、絶対大切に保存すべきだ。日本から、修復技術者(何というのでしたかな?)を派遣してもよい位だ。
>普通の人は「自分に嘘をつく事」「他人に嘘をつく事」ぐらいだがキリスト者は時として「神に嘘をつく事」をせねばならず、それが思考を深くしていると言うのだ。
>これは「告悔」の習慣の無いプロテスタントの学校で思春期を過ごした私にも思い当たる事がある。
>プロテスタントでは祭司の役割がカトリックに比べて小さくなる代わり、信者にも同様の役目を割り振る事が多い。
>信者にも「説教」をやらせるのだ。学校においてもそれは同じである。
>と言うより、信者でもない生徒にもそれをやらせる。
>私達は二ヶ月に一回位のペースで「礼拝の司会兼説教当番」をやったものである。
>理解していただけるかどうか解らないが、これは大変な事なのだ。
>私達は二ヶ月に一回位のペースで「回心(改心ではない)」を繰り返さねばならなかったから。
女史の理論武装能力の淵源は、プロテスタント派にありましたか。
私がよく知っているのもプロテスタントの一派だが、こちらは女史の母校よりは、教義的に緩やかのようだ。(その代わり、別種の問題があった)こちらで、女史の言われる回心に当たるのは、「信仰告白」だろう。これは、一定の形も、要求されるような内容もなく、素直に自分の思うところを発表すればよかった。だが、それでも、自分の番が迫ってくれば、皆気重になっていたようだ。
>こう言った学校生活による実感として私はキリスト教が諸思想・諸哲学を産んだ背景には「歴史的要因・宿命」よりも信者自身に常に自らの「罪」と向き合わせようとする教理と礼拝・懺悔などの典礼様式、それに縛られた信者の日常生活の在り方がより素直に強く働いてい・
その、自らの内面に極端に目を向けさせたがる傾向こそ、邪教視されていたローマ時代を通じて培われたキリスト教の傾向。そして、それに相応しいように、諸様式が整備され、今度は、それに、幹部も、一般信者も拘束されるようになった。悪循環が、始まったのだ。
その意味では、私は、イスラムの方が、人間というものに対して、乾いた優しさを本来は持っていたと思う。「汝の兄弟の妻を姦淫の目で見るだけで、姦淫の罪を犯したのと同じである」とまで精神的潔癖を求めたキリスト教に対し、どうせ異性を見たら欲情するのが人間なのだから、だったら、4人までは正式の妻を持つことを許してしまえ、と割り切ったのがイスラムだ。(もちろん、正妻を4人まで、としたのは、本来は、戦争未亡人救済のためなのだが)イスラムは、「人間の精神」を規制したのではなく、「人間の行為」を規制して、それに対する「神の要求する範囲」を明確にしたのだ。つまり、「心の中でどう思うか」には、拘らなかったということ。本来のイスラムは、ね。
これは メッセージ 12313 (pas_maljp さん)への返信です.
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