yaenanae01さんへ(1)
投稿者: pas_maljp 投稿日時: 2004/01/24 17:49 投稿番号: [12313 / 44985]
>>世界史上、不思議なことに仏教とキリスト教の戦いと言うのは無い(聞いた事がない)。
>世界史か、と言われると、はなはだローカルだが。
>九州・山口のキリシタン大名の領地では、キリシタン側の布教を巡って、あちこちで、仏教徒とキリシタン側がいざこざを起こしている。セミナリオの焼き討ちやら、寺の打ち壊しやら、それなりに派手にはやっていたはず。
以前ローマを訪れた折、案内を買って出てくれたのがカトリック神父であった事もあり、ずいぶん多くの教会を見た。
その中で全然日本人に見えない「長崎26聖人」の絵にも違和感を覚えたのだが、祭壇脇の勇壮な大天使像が踏み付けている悪魔に「KAMI」「HOTOKE」と彫り込んであるのには怒りを覚えるよりも「余りに子供地味たやり方」に笑ってしまった。
エキュメニズム運動を経て「諸宗教」の和解を呼び掛けている現代聖庁のお膝元ローマにこう言う物がしっかり残してあるのが良いではないか。
どこかの国ならヒステリーを起こして「削れ」ぐらいの事は良いそうだが、私は歴史の一こまとしてしっかり保存して欲しいと思う。
磨耗や風化でこれ以上文字がかき消えない様に配慮して欲しいくらいだ。
>私が何故キリスト教を高く評価しているかというと、「その発展過程で余りにも多くの血を流し過ぎたため(ローマ時代に国教となってすぐから、そうでしたからな。いや、正確にはその前からだ)」「それを乗り越えるための、次の時代を切り開く諸思想・諸哲学・諸科学を生み出す苦闘を果敢に行わざるを得ない宿命」を、その信者層自体の中に生んだ、ということだ。
カトリックの作家である曽野綾子氏はキリスト者の内面を複雑かつ味わい深い物にしている要因として「神を前に嘘をつかなくてはならないからだ」と言う事をあげている。
普通の人は「自分に嘘をつく事」「他人に嘘をつく事」ぐらいだがキリスト者は時として「神に嘘をつく事」をせねばならず、それが思考を深くしていると言うのだ。
これは「告悔」の習慣の無いプロテスタントの学校で思春期を過ごした私にも思い当たる事がある。
プロテスタントでは祭司の役割がカトリックに比べて小さくなる代わり、信者にも同様の役目を割り振る事が多い。
信者にも「説教」をやらせるのだ。学校においてもそれは同じである。
と言うより、信者でもない生徒にもそれをやらせる。
私達は二ヶ月に一回位のペースで「礼拝の司会兼説教当番」をやったものである。
理解していただけるかどうか解らないが、これは大変な事なのだ。
私達は二ヶ月に一回位のペースで「回心(改心ではない)」を繰り返さねばならなかったから。
ちなみに「改心」と言うのは「悪事を改め正道に立ち返る事」であるが
「回心」と言うのは「他に心を奪われていた人間が神の方へ向き直る事」である。
時々美術書などに「聖パウロの改心」とあるが宗教用語としては「回心」の文字を使うのが正しい。
幾らプロテスタントの学校に通っていても四六時中「神の愛」と「人の罪」について考えている訳には行かない。
また「回心」話に相応しい話でも人様に語りたくない事はある。
二ヶ月に一度、肝心な点をぼかしつつ如何にして「説教」に相応しい10〜15分程度の「回心」話をまとめあげるかに知恵を振り絞らねばならないのである。
時々誠実かつ正直な人間が赤裸々な罪の告白をして教室が騒然となることも皆無ではないが・・・
まあ、自然同年代の子に比べ、倫理とか、哲学に類する事を考え、論理的に話を組み立て、そこそこ自分を弁護しつつ人前で演説する訓練を積む機会が与えられる事にはなったと思う。
まぁ、どんなにめんどくさがりの人間でも最低限「私は本来同情心を示すべき相手に同情心を示す事ができず、本当に情けない罪深い人間であると反省しています」という一番アレンジしやすいパターンに個性を加える程度のいやらしい事は考え出さねばならぬ訳だ。
また教師とぶつかった場合もややこやしい。
向うは「神の前で恥ずかしくないか?」と聞いてくるから、反論する気ならば、一段も二段も一般道徳より厳しい「宗教的な倫理基準」に照らして「私が今回した事は神の前でも恥ずかしくないぞ」と、開き直るか、それだけの理論武装をして意見を戦わせる根性を示すしかないのである。
まぁ、そこまでやる気になると向うも一般教師ではなく牧師資格を持った宗教担当の教師を担ぎ出してきて大変な事になるが・・・
こう言った学校生活による実感として私はキリスト教が諸思想・諸哲学を産んだ背景には「歴史的要因・宿命」よりも信者自身に常に自らの「罪」と向き合わせようとする教理と礼拝・懺悔などの典礼様式、それに縛られた信者の日常生活の在り方がより素直に強く働いてい\xA4
>世界史か、と言われると、はなはだローカルだが。
>九州・山口のキリシタン大名の領地では、キリシタン側の布教を巡って、あちこちで、仏教徒とキリシタン側がいざこざを起こしている。セミナリオの焼き討ちやら、寺の打ち壊しやら、それなりに派手にはやっていたはず。
以前ローマを訪れた折、案内を買って出てくれたのがカトリック神父であった事もあり、ずいぶん多くの教会を見た。
その中で全然日本人に見えない「長崎26聖人」の絵にも違和感を覚えたのだが、祭壇脇の勇壮な大天使像が踏み付けている悪魔に「KAMI」「HOTOKE」と彫り込んであるのには怒りを覚えるよりも「余りに子供地味たやり方」に笑ってしまった。
エキュメニズム運動を経て「諸宗教」の和解を呼び掛けている現代聖庁のお膝元ローマにこう言う物がしっかり残してあるのが良いではないか。
どこかの国ならヒステリーを起こして「削れ」ぐらいの事は良いそうだが、私は歴史の一こまとしてしっかり保存して欲しいと思う。
磨耗や風化でこれ以上文字がかき消えない様に配慮して欲しいくらいだ。
>私が何故キリスト教を高く評価しているかというと、「その発展過程で余りにも多くの血を流し過ぎたため(ローマ時代に国教となってすぐから、そうでしたからな。いや、正確にはその前からだ)」「それを乗り越えるための、次の時代を切り開く諸思想・諸哲学・諸科学を生み出す苦闘を果敢に行わざるを得ない宿命」を、その信者層自体の中に生んだ、ということだ。
カトリックの作家である曽野綾子氏はキリスト者の内面を複雑かつ味わい深い物にしている要因として「神を前に嘘をつかなくてはならないからだ」と言う事をあげている。
普通の人は「自分に嘘をつく事」「他人に嘘をつく事」ぐらいだがキリスト者は時として「神に嘘をつく事」をせねばならず、それが思考を深くしていると言うのだ。
これは「告悔」の習慣の無いプロテスタントの学校で思春期を過ごした私にも思い当たる事がある。
プロテスタントでは祭司の役割がカトリックに比べて小さくなる代わり、信者にも同様の役目を割り振る事が多い。
信者にも「説教」をやらせるのだ。学校においてもそれは同じである。
と言うより、信者でもない生徒にもそれをやらせる。
私達は二ヶ月に一回位のペースで「礼拝の司会兼説教当番」をやったものである。
理解していただけるかどうか解らないが、これは大変な事なのだ。
私達は二ヶ月に一回位のペースで「回心(改心ではない)」を繰り返さねばならなかったから。
ちなみに「改心」と言うのは「悪事を改め正道に立ち返る事」であるが
「回心」と言うのは「他に心を奪われていた人間が神の方へ向き直る事」である。
時々美術書などに「聖パウロの改心」とあるが宗教用語としては「回心」の文字を使うのが正しい。
幾らプロテスタントの学校に通っていても四六時中「神の愛」と「人の罪」について考えている訳には行かない。
また「回心」話に相応しい話でも人様に語りたくない事はある。
二ヶ月に一度、肝心な点をぼかしつつ如何にして「説教」に相応しい10〜15分程度の「回心」話をまとめあげるかに知恵を振り絞らねばならないのである。
時々誠実かつ正直な人間が赤裸々な罪の告白をして教室が騒然となることも皆無ではないが・・・
まあ、自然同年代の子に比べ、倫理とか、哲学に類する事を考え、論理的に話を組み立て、そこそこ自分を弁護しつつ人前で演説する訓練を積む機会が与えられる事にはなったと思う。
まぁ、どんなにめんどくさがりの人間でも最低限「私は本来同情心を示すべき相手に同情心を示す事ができず、本当に情けない罪深い人間であると反省しています」という一番アレンジしやすいパターンに個性を加える程度のいやらしい事は考え出さねばならぬ訳だ。
また教師とぶつかった場合もややこやしい。
向うは「神の前で恥ずかしくないか?」と聞いてくるから、反論する気ならば、一段も二段も一般道徳より厳しい「宗教的な倫理基準」に照らして「私が今回した事は神の前でも恥ずかしくないぞ」と、開き直るか、それだけの理論武装をして意見を戦わせる根性を示すしかないのである。
まぁ、そこまでやる気になると向うも一般教師ではなく牧師資格を持った宗教担当の教師を担ぎ出してきて大変な事になるが・・・
こう言った学校生活による実感として私はキリスト教が諸思想・諸哲学を産んだ背景には「歴史的要因・宿命」よりも信者自身に常に自らの「罪」と向き合わせようとする教理と礼拝・懺悔などの典礼様式、それに縛られた信者の日常生活の在り方がより素直に強く働いてい\xA4
これは メッセージ 12299 (yaenanae01 さん)への返信です.
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