田舎もんの歴史捏造を正す!その2
投稿者: elgfaret 投稿日時: 2007/04/15 15:15 投稿番号: [38819 / 85019]
田舎もんよ、おまえらの信じたい捏造の産物「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」
事実を勉強しなさい
>>> 10.幻の「聖徳太子の独自外交」
古代の日本の第3節の「律令国家」の成立は、最初に「聖徳太子の新政」という項目で開始される。そしてその前半部である「聖徳太子の外交」という項で、新しい歴史教科書は次の様に高らかに宣言する(p45)。
わが国は、中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属はしない―これが、その後もずっと変わらない、古代日本の基本姿勢となった。
この本の著者たちは、古代日本の王が中国の皇帝に対して臣下の礼をとり、日本が中国の属国であったことが気に入らないらしくて、これまでの記述でもさんざんこの主張を繰り返してきた。しかしそう判断する資料に欠ける所に問題があった。
だがここで、「日本は、中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属はしない」と主張する根拠が見つかったというわけだ。それが聖徳太子の外交姿勢にあらわれているという。
中略
そこで、太子は隋あての国書には、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」(日が昇る国の天子が、日が沈む国の天子にあてて書簡を送る。ご無事にお過ごしか)と書かれた。遣隋使は隋からみれば朝貢使だが、太子は国書の文面で対等の立場を強調することで、隋には決して服属しないという決意表明を行ったのだった。隋の皇帝煬帝は激怒したが、高句麗との抗争中なので忍耐した。
そう。日本書紀の推古朝の大唐(日本書紀には隋ではなく大唐と書かれている)への貢献記事と、隋書に見られる倭の貢献記事とが同じと考えると、この「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書は、日本と中国とを対等と主張しており、極めて異色である。そしてこの教科書の著者たちはこの事を持って、「日本が中国には服属しない」と宣言したと解したのであった。
「愛国の人・聖徳太子」というわけである。
しかしはたしてそうなのであろうか。原典資料にあたってみると、これが大きな間違いなのである。
(1)矛盾する二つの国書!
実は、あの有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書は、日本書紀には載っていない。そのかわりに日本書紀には推古天皇の国書が載っている。しかし二つの国書を比較すると、その内容と姿勢に大きな違いがあることに気づく。
日本書紀の国書は以下のようである。
「東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます。使人鴻臚寺の掌客裴世清らがわが国に来り、久しく国交を求めていたわが方の思いが解けました。この頃ようやく涼しい気候となりましたが、貴国はいかがでしょうが。お変わりはないでしょうか。当方は無事です。」
前記の国書とは大いに趣を違えている。
日本書紀では前年の推古15年に大唐に送った小野妹子が翌16年春に帰朝し、そのときに一緒にきた使いの裴世清がもたらした皇帝の国書にたいする返礼として、推古天皇が使いに持たせた国書ということになっている。ということは、この国書は、先の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書に対する皇帝の返書へのさらなる返書という関係になり、一連のものということになる。
だが本当にそうだろうか。前の国書では双方を「天子」とし、中国の皇帝と日本の「天皇」は対等といっている。しかしあとの国書では日本の天皇の方が明らかに下であり、とてもへりくだった態度である。とても一連の往復書簡とは思えないのである。
そして「久しく国交を求めていたわが方の思いが解けた」という言い方も変である。隋とは始めてかもしれないが、紀元前から長い間中国王朝と国交を結んできた倭国の王の国書としては意味が通じないのである。
(2)隋の皇帝の返書はない!
また、隋書たい(人偏に妥の字。読みは「たい」。おそらく大倭か。)国伝では、先の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書に対して激怒した隋の皇帝煬帝は、たい国王に返書をあたえなかった。代わりに使人の裴世清が口頭で、「皇帝、徳はあめつちに並び、澤は四海に流る。王、化を慕うの故をもって、行人を遣わして来たらしめ、此れに宣諭す」と、たい国王に述べさせている。とりあえず、皇帝はたい国王が隋の皇帝の徳を慕って朝貢してきたとみなして、友好関係は維持するという態度であった。
中略
ソース
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/1-10.htm
事実を勉強しなさい
>>> 10.幻の「聖徳太子の独自外交」
古代の日本の第3節の「律令国家」の成立は、最初に「聖徳太子の新政」という項目で開始される。そしてその前半部である「聖徳太子の外交」という項で、新しい歴史教科書は次の様に高らかに宣言する(p45)。
わが国は、中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属はしない―これが、その後もずっと変わらない、古代日本の基本姿勢となった。
この本の著者たちは、古代日本の王が中国の皇帝に対して臣下の礼をとり、日本が中国の属国であったことが気に入らないらしくて、これまでの記述でもさんざんこの主張を繰り返してきた。しかしそう判断する資料に欠ける所に問題があった。
だがここで、「日本は、中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属はしない」と主張する根拠が見つかったというわけだ。それが聖徳太子の外交姿勢にあらわれているという。
中略
そこで、太子は隋あての国書には、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」(日が昇る国の天子が、日が沈む国の天子にあてて書簡を送る。ご無事にお過ごしか)と書かれた。遣隋使は隋からみれば朝貢使だが、太子は国書の文面で対等の立場を強調することで、隋には決して服属しないという決意表明を行ったのだった。隋の皇帝煬帝は激怒したが、高句麗との抗争中なので忍耐した。
そう。日本書紀の推古朝の大唐(日本書紀には隋ではなく大唐と書かれている)への貢献記事と、隋書に見られる倭の貢献記事とが同じと考えると、この「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書は、日本と中国とを対等と主張しており、極めて異色である。そしてこの教科書の著者たちはこの事を持って、「日本が中国には服属しない」と宣言したと解したのであった。
「愛国の人・聖徳太子」というわけである。
しかしはたしてそうなのであろうか。原典資料にあたってみると、これが大きな間違いなのである。
(1)矛盾する二つの国書!
実は、あの有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書は、日本書紀には載っていない。そのかわりに日本書紀には推古天皇の国書が載っている。しかし二つの国書を比較すると、その内容と姿勢に大きな違いがあることに気づく。
日本書紀の国書は以下のようである。
「東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます。使人鴻臚寺の掌客裴世清らがわが国に来り、久しく国交を求めていたわが方の思いが解けました。この頃ようやく涼しい気候となりましたが、貴国はいかがでしょうが。お変わりはないでしょうか。当方は無事です。」
前記の国書とは大いに趣を違えている。
日本書紀では前年の推古15年に大唐に送った小野妹子が翌16年春に帰朝し、そのときに一緒にきた使いの裴世清がもたらした皇帝の国書にたいする返礼として、推古天皇が使いに持たせた国書ということになっている。ということは、この国書は、先の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書に対する皇帝の返書へのさらなる返書という関係になり、一連のものということになる。
だが本当にそうだろうか。前の国書では双方を「天子」とし、中国の皇帝と日本の「天皇」は対等といっている。しかしあとの国書では日本の天皇の方が明らかに下であり、とてもへりくだった態度である。とても一連の往復書簡とは思えないのである。
そして「久しく国交を求めていたわが方の思いが解けた」という言い方も変である。隋とは始めてかもしれないが、紀元前から長い間中国王朝と国交を結んできた倭国の王の国書としては意味が通じないのである。
(2)隋の皇帝の返書はない!
また、隋書たい(人偏に妥の字。読みは「たい」。おそらく大倭か。)国伝では、先の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書に対して激怒した隋の皇帝煬帝は、たい国王に返書をあたえなかった。代わりに使人の裴世清が口頭で、「皇帝、徳はあめつちに並び、澤は四海に流る。王、化を慕うの故をもって、行人を遣わして来たらしめ、此れに宣諭す」と、たい国王に述べさせている。とりあえず、皇帝はたい国王が隋の皇帝の徳を慕って朝貢してきたとみなして、友好関係は維持するという態度であった。
中略
ソース
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/1-10.htm
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