Re: 尖閣諸島研究会 10P
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2011/07/13 21:08 投稿番号: [9 / 61]
考え、同年ハ刃同氏に対して期間三十年の無斜貸与を許可
J&1t g島に4するI地申蹟は明治一一十七年と明治こ十八年
にむなされ一‘ヽ‘るただしこのときは列島の帰臓が不明であると
‐‘う理由で認められなかりた)。
国有地の倍用許可をえた古賀氏は翌明治三十年(一八九七
年‘以降大規槙な資本を投じて尖閣列島の開拓に着手し
4jkS a4S4のため古賀氏は最初の四竿間、すなわち明拍Ξ
ト年に。・‘十五人、明治Ξ十「年同じく五十人、明治三十一一年二十
九八『明治ミふ一Ξ年男十三人・女子九人の労働者を列島に派遺し
たベ
すなわら、同氏は魚釣島と久場島に家屋、貯水旅股、船
着場、枚僑などを檎築するとともに、排水溝など衛生環境
の改河、海鳥およぴ鳥卵の保護、実験栽培(穀物、甘鼎、
腎菜類)捕林(樟苗、松、杉、柑橘類)、開墾(六十奈町歩)、牧
畜、養蚕などをおこなってきた。その結果、明胎四十二年
には二百四十八名(九十九戸)の移民が列島に定住し、開
拓巾業に従事していた。この功績によって政府は同年十】
月ニトニロ古賀氏に藍綬褒章を授与した。
害賀氏は開拓事業と並行して明治十七年(一八八四年)
から紺続しておこなってきたアホウ烏の鳥毛(羽毛および綿
E)採取、フカの餅、海参、貝類、笙甲の採集に加えて、
珊治三十六年こ九〇三年)以降海鳥の剥製(同¥剥製造り
職人十敦名移伎)、明治四十年(一九J七年)以降珊瑚採集、
明捨四十一年以降海鳥の缶詰製造までもおこなってきた。
古賀氏はまた明治十七年以降小規襖な鰹原を列島で営んで
きたが、明治Ξ十八午(一九〇五年)遠洋―漁紛三隻を内
地で新造(注明治三十九年五隻その扱も毎年二〜五隻を礁造
し、このほか瑠瑚採取船も毎年五隻平均新造している)させる
ともに、宮崎県下より鰹節製造職入歓十名を堰い入れ列島
にと派遣している。
さらに同氏は明怜四十年(一九〇七年)福岡鉱山監菅讐
に燐畝石(グアノ)の採掘出願をおこない、同早八月十九一
日これを認可されるや、ただちにグアノ(鳥糞)の採掘に
着手した(注グアノの採堀と債み出しは第一次大戦の結果齢
価が高騰し採算がとれなくなる大正八年頃までおこなわれた)。
古賀辰四郎氏の死亡後その嫡子善次氏によって開拓と事
業が続けられ、とくに魚釣島と南小島で鰹節および各種海
鳥の剥製製造、森林伐採などの事業が営まれてきた(注
古賀善次氏による事業の最盛期には鰹節製造の隋夫八ふ‐人、剥製
作りの職人、七八十人が魚釣島と南小島に居住していた。ただしア
ホウ鳥の鳥毛採取は乱獲と粟害などのため大正四年以降、また鰹
節の製造も太平洋戦争直匍に船舶用燃粁が配袷制となったため、
J&1t g島に4するI地申蹟は明治一一十七年と明治こ十八年
にむなされ一‘ヽ‘るただしこのときは列島の帰臓が不明であると
‐‘う理由で認められなかりた)。
国有地の倍用許可をえた古賀氏は翌明治三十年(一八九七
年‘以降大規槙な資本を投じて尖閣列島の開拓に着手し
4jkS a4S4のため古賀氏は最初の四竿間、すなわち明拍Ξ
ト年に。・‘十五人、明治Ξ十「年同じく五十人、明治三十一一年二十
九八『明治ミふ一Ξ年男十三人・女子九人の労働者を列島に派遺し
たベ
すなわら、同氏は魚釣島と久場島に家屋、貯水旅股、船
着場、枚僑などを檎築するとともに、排水溝など衛生環境
の改河、海鳥およぴ鳥卵の保護、実験栽培(穀物、甘鼎、
腎菜類)捕林(樟苗、松、杉、柑橘類)、開墾(六十奈町歩)、牧
畜、養蚕などをおこなってきた。その結果、明胎四十二年
には二百四十八名(九十九戸)の移民が列島に定住し、開
拓巾業に従事していた。この功績によって政府は同年十】
月ニトニロ古賀氏に藍綬褒章を授与した。
害賀氏は開拓事業と並行して明治十七年(一八八四年)
から紺続しておこなってきたアホウ烏の鳥毛(羽毛および綿
E)採取、フカの餅、海参、貝類、笙甲の採集に加えて、
珊治三十六年こ九〇三年)以降海鳥の剥製(同¥剥製造り
職人十敦名移伎)、明治四十年(一九J七年)以降珊瑚採集、
明捨四十一年以降海鳥の缶詰製造までもおこなってきた。
古賀氏はまた明治十七年以降小規襖な鰹原を列島で営んで
きたが、明治Ξ十八午(一九〇五年)遠洋―漁紛三隻を内
地で新造(注明治三十九年五隻その扱も毎年二〜五隻を礁造
し、このほか瑠瑚採取船も毎年五隻平均新造している)させる
ともに、宮崎県下より鰹節製造職入歓十名を堰い入れ列島
にと派遣している。
さらに同氏は明怜四十年(一九〇七年)福岡鉱山監菅讐
に燐畝石(グアノ)の採掘出願をおこない、同早八月十九一
日これを認可されるや、ただちにグアノ(鳥糞)の採掘に
着手した(注グアノの採堀と債み出しは第一次大戦の結果齢
価が高騰し採算がとれなくなる大正八年頃までおこなわれた)。
古賀辰四郎氏の死亡後その嫡子善次氏によって開拓と事
業が続けられ、とくに魚釣島と南小島で鰹節および各種海
鳥の剥製製造、森林伐採などの事業が営まれてきた(注
古賀善次氏による事業の最盛期には鰹節製造の隋夫八ふ‐人、剥製
作りの職人、七八十人が魚釣島と南小島に居住していた。ただしア
ホウ鳥の鳥毛採取は乱獲と粟害などのため大正四年以降、また鰹
節の製造も太平洋戦争直匍に船舶用燃粁が配袷制となったため、
これは メッセージ 7 (senkaku_islands さん)への返信です.
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