台湾人と本気で交流

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1955年の映画「私は貝になりたい」

投稿者: suzuteri2515 投稿日時: 2005/05/03 03:46 投稿番号: [6945 / 10346]
Cafe様:
東京の神保町で映画でみたのです。戦地から復員した日本兵は故郷の散髪屋を手伝っていたが突然ジープできたM.P.に連衡されるというのが始まりでした。まだ内地に復員していた彼は幸いでして、南太平洋群島でB.C級戦犯になった台湾、朝鮮などの軍夫、軍属、正規兵は弁護がなくて豪州、オランダ、英国が主になりでっち上げ裁判で、一時間裁判といいました。このレヴェルの裁判が一番非難されるべきものです。戦後の日本人摘発に一番きついのは豪州トオランダと英国でした。戦後天皇訪問でも道路上でデモをみせるのはオランダ。英国グループです。終戦時、台湾に一万人の連合国の捕虜がいました。連合国を代表して24時間以内に全土の捕虜を基隆につれて来いというのが命令でした。台湾軍は死にもの狂いで急遽あつめました。これは連合軍がほめたそうです。台湾に不時着した米国飛行士を裁判の末銃殺しています。14人をころしていますので、総督は必ず問題となるとこの下手人をすぐ除隊させて日本に帰国できる対策をとりました。幸い逃げ帰り「貝」にはならずにすみました。でも安藤中将は全責任を採って上海の刑務所で裁判前に軍服の襟の裏側に縫い付けておいたセイサンカリで自殺しました。安藤中将の終戦処理は山下、本田両将軍と同じく立派なものでした。

美国が終戦直後の統制をやりました。国府には財力、技術もなくて蒋介石はただ一時も早く日本軍と日本人に帰国してもらいたかったのです。ただそれだけです。このうるさい要素を取り除き速く反共の体制建て直しをしたかったのです。
私も軍事物資輸送中で米国の射撃により毎日共に寝起きした同僚が消えた無念はわすれえません。甘蔗畑の中に逃げてもおいかける機銃掃射で犠牲者がでました。13歳の少年ですが台湾軍の本島人と同じく補償はありませんでした。勤労学徒の資格では補償はありませんでした。戦後も日本国籍の正規兵だけ優遇されました。
横からすみません。
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