紫陽花亭日乗

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Re: 「血の快楽」  張献忠殺人鬼伝説

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/09/16 00:02 投稿番号: [509 / 735]
★前回の   >&#28366;陽(河南省鄭州市)<の「&#28366;」は、
「榮」の字の「木」の部分が「水」の字です。「ケイ」と読みます。

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しかし、この時も張献忠は、兵部尚書(国防大臣)の熊文粲に、
金塊千個、一斗マスにあふれるほどの珠玉といった金銀財宝を、
しこたま賄賂に贈って勢力を温存、翌年には早くも態勢を立て直し、
再度反旗をひるがえして攻勢に転じた。

  政府軍の元締めたる国防大臣が、「流賊」から平然と賄賂を受け取るとは・・・・・。
明の政治機構がいかに根底的に腐敗していたか、
この一事をもってしても明らかであろう。

  それはさておき、こうして張献忠はまたまた、
四川省から湖北・安徽省を股にかけて転戦し、1643年(崇禎16年)には
湖北の軍事拠点の武昌(武漢市)を奪取、大西王と自称するに至る。


大志が消えた時に・・・・・
  この時点までの張献忠は、明末清初の文学者呉偉業(1609〜1672)が、「
最初、張献忠が武昌に依拠した時には、大志があったために、
支配下におさめた都市に対してそれほど殺戮はしなかった」
(呉偉業『綏寇紀略・スイコウキリャク』巻十「鹽亭誄・エンテイルイ」)
と述べているように、反権力武装集団のリーダーらしい面影をとどめており、
サディスティックな殺人癖はまだあらわれていない。

  張献忠が、その癖を暴発させるのは、苦手の明の将軍左良玉の
攻撃を避け、1644年(崇禎17年)、大軍を率いて本格的に蜀つまり
四川省に入ってからのことである。

  この年六月、張献忠は重慶を陥落させ、続いて八月には
成都を陥落させて蜀全土を制圧、皇帝を自称した。
ちなみに、ライバルの李自成は同年三月、首都北京を制圧、
明王朝を滅ぼしたものの、二ヵ月後の五月には次の時代の真の主役たる
満州族の清の攻撃を受け、北京から追われている。

  つまり張献忠の入蜀は、、こうした中心部の政権交代劇が決着したあと
敢行されたものにほかならず、その想像を絶する殺人癖が爆発したのも、
まさしくこの時点からだった。
この点について、張献忠にしばしば言及する魯迅は、次のように述べている。

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つづく

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