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「血の快楽」  張献忠殺人鬼伝説

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/09/15 23:59 投稿番号: [508 / 735]
血の快楽
井波律子『酒池肉林』講談社現代新書より

李自成と張献忠
  明末の「流賊」長献忠(1606〜1646)は、桁はずれの異人・奇人に
事欠かぬ中国史上でも珍無類、稀代の殺人鬼として、
数多くの凶々しい伝説に包まれた人物である。

  18世紀後半に書かれた野史『蜀碧』(彭遵洒著)は、
そうした張献忠殺人鬼伝説を極端化したものにほかならない。
殺人鬼長献忠はいかにして誕生したか、まずその歴史的脈絡をたどってみよう。

  宦官魏忠賢の跋扈によって、明王朝は回復不能のダメージを受けた。
明最後の皇帝となった崇禎帝は即位後、ただちに混乱の元凶魏忠賢を
滅ぼしたが、時すでにおそく、社会不安は激化する一方だった。
崇禎年間(1628〜1644)初期、極貧地帯の陝西省で農民反乱が起こったのを
皮切りに、やがて反乱は中国全土に燎原の火のように広がった。

  「流賊」と総称されるこれら反乱軍は、最初、多くのグループに
分かれていたが、しだいにかたや李自成(1606〜1645)を、かたや張献忠を
リーダーとする、二つの大きなグループにまとまっていった。
李自成と張献忠はともに、流賊の本場陝西の出身であり、
早くから反乱軍に加わってメキメキと頭角をあらわした者たちである。

  張献忠は長身痩躯、顔はやや黄色身を帯び、
性格は機敏にして勇猛、果断にして侠気に富んでいたため、
当初、反乱軍のなかで、「黄虎」と呼ばれたという。

  張献忠が李自成と袂をわかつ景気になったのは、1635年(崇禎8年)、
&#28366;陽(河南省鄭州市)において、反乱軍七十二営(部隊)のリーダーが集まり
大会を催したさい、作戦計画をめぐって最年長のリーダー高迎祥の武将
李自成と対立、敗北したことだった。

  以後、張献忠はしだいに高迎祥・李自成グループと別行動を
とるようになり、やがて自軍を率いて南下、湖北省に入った。
高迎祥は大会の翌年に敗死したので、李自成がその勢力を
受け継ぐことになり、ここに反乱軍の二極分化の形勢が確定した。

  湖北に入った張献忠は、土着の農民反乱部隊を吸収して勢力を拡大し、
湖北省から安徽省一帯にかけ明軍と戦闘をくり返した。
この間、明軍に撃破され追いつめられて、1638年(崇禎11年)、
偽装降伏したこともあった。


つづく

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