尾生の信 芥川龍之介
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/09/15 01:14 投稿番号: [507 / 735]
尾生の信
芥川龍之介
尾生(びせい)は橋の下に佇んで、さっきから女の来るのを待っている。
見上げると、高い石の橋欄には、蔦蘿が半ば這いかかって、時々その間を
通りすぎる往来の人の白衣の裾が、鮮かな入日に照らされながら、
悠々と風に吹かれて行く。が、女は未だに来ない。
尾生はそっと口笛を鳴しながら、気軽く橋の下の洲を見渡した。
橋の下の黄泥(こうでい)の洲は、二坪ばかりの広さを剰して、すぐに
水と続いている。水際の蘆の間には、大方蟹の棲家であろう、いくつも円い
穴があって、そこへ波が当る度に、たぶりと云うかすかな音が聞えた。
が、女は未だに来ない。
尾生はやや待遠しそうに水際まで歩を移して、舟一艘通らない静な
川筋を眺めまわした。
川筋には青い蘆が、隙間もなくひしひしと生えている。のみならずその
蘆の間には、所々に川楊が、こんもりと円く茂っている。だからその間を
縫う水の面も、川幅の割には広く見えない。ただ、帯ほどの澄んだ水が、
雲母のような雲の影をたった一つ鍍金しながら、ひっそりと蘆の中に
うねっている。が、女は未だに来ない。
尾生は水際から歩をめぐらせて、今度は広くもない洲の上を、
あちらこちらと歩きながら、おもむろに暮色を加えて行く、
あたりの静かさに耳を傾けた。
橋の上にはしばらくの間、行人の跡を絶ったのであろう。沓の音も、
蹄の音も、あるいはまた車の音も、そこからはもう聞えて来ない。
風の音、蘆の音、水の音、――それからどこかでけたたましく、蒼鷺の
啼く声がした。と思って立止ると、いつか潮がさし出したと見えて、黄泥を
洗う水の色が、さっきよりは間近に光っている。が、女は未だに来ない。
尾生は険しく眉をひそめながら、橋の下のうす暗い洲を、いよいよ足早に
歩き始めた。その内に川の水は、一寸ずつ、一尺ずつ、次第に洲の上へ上
って来る。同時にまた川から立昇る藻のや水のも、冷たく肌にまつわり出した。
見上げると、もう橋の上には鮮かな入日の光が消えて、ただ、石の橋欄
ばかりが、ほのかに青んだ暮方の空を、黒々と正しく切り抜いている。
が、女は未だに来ない。
尾生はとうとう立ちすくんだ。
川の水はもう沓を濡しながら、鋼鉄よりも冷やかな光を湛えて、漫々と
橋の下に広がっている。すると、膝も、腹も、胸も、恐らくは頃刻を
出ない内に、この酷薄な満潮の水に隠されてしまうのに相違あるまい。
いや、そう云う内にも水嵩は益高くなって、今ではとうとう両脛
さえも、川波の下に没してしまった。が、女は未だに来ない。
尾生は水の中に立ったまま、まだ一縷の望を便りに、何度も橋の空へ眼をやった。
腹を浸(ひた)した水の上には、とうに蒼茫たる暮色が立ち罩めて、
遠近に茂った蘆や柳も、寂しい葉ずれの音ばかりを、ぼんやりした靄の中
から送って来る。と、尾生の鼻を掠めて、鱸らしい魚が一匹、ひらりと
白い腹を飜した。その魚の躍った空にも、疎ながらもう星の光が見えて、
蔦蘿のからんだ橋欄の形さえ、いち早い宵暗の中に紛(まぎ)れている。
が、女は未だに来ない。……
―――――――――――――――――――――――――
夜半、月の光が一川の蘆と柳とに溢(あふ)れた時、川の水と微風とは
静に囁き交しながら、橋の下の尾生の死骸を、やさしく海の方へ運んで行った。
が、尾生の魂は、寂しい天心の月の光に、思い憧れたせいかも知れない。
ひそかに死骸を抜け出すと、ほのかに明るんだ空の向うへ、まるで水のや
藻のが音もなく川から立ち昇るように、うらうらと高く昇ってしまった。……
それから幾千年かを隔てた後、この魂は無数の流転を閲して、また生を
人間(じんかん)に託さなければならなくなった。それがこう云う私に
宿っている魂なのである。だから私は現代に生れはしたが、何一つ意味の
ある仕事が出来ない。昼も夜も漫然と夢みがちな生活を送りながら、ただ、
何か来(きた)るべき不可思議なものばかりを待っている。
ちょうどあの尾生が薄暮の橋の下で、
永久に来ない恋人をいつまでも待ち暮したように。
(大正八年十二月)
★底本:「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年12月1日第1刷発行
★青空文庫より転載
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芥川龍之介
尾生(びせい)は橋の下に佇んで、さっきから女の来るのを待っている。
見上げると、高い石の橋欄には、蔦蘿が半ば這いかかって、時々その間を
通りすぎる往来の人の白衣の裾が、鮮かな入日に照らされながら、
悠々と風に吹かれて行く。が、女は未だに来ない。
尾生はそっと口笛を鳴しながら、気軽く橋の下の洲を見渡した。
橋の下の黄泥(こうでい)の洲は、二坪ばかりの広さを剰して、すぐに
水と続いている。水際の蘆の間には、大方蟹の棲家であろう、いくつも円い
穴があって、そこへ波が当る度に、たぶりと云うかすかな音が聞えた。
が、女は未だに来ない。
尾生はやや待遠しそうに水際まで歩を移して、舟一艘通らない静な
川筋を眺めまわした。
川筋には青い蘆が、隙間もなくひしひしと生えている。のみならずその
蘆の間には、所々に川楊が、こんもりと円く茂っている。だからその間を
縫う水の面も、川幅の割には広く見えない。ただ、帯ほどの澄んだ水が、
雲母のような雲の影をたった一つ鍍金しながら、ひっそりと蘆の中に
うねっている。が、女は未だに来ない。
尾生は水際から歩をめぐらせて、今度は広くもない洲の上を、
あちらこちらと歩きながら、おもむろに暮色を加えて行く、
あたりの静かさに耳を傾けた。
橋の上にはしばらくの間、行人の跡を絶ったのであろう。沓の音も、
蹄の音も、あるいはまた車の音も、そこからはもう聞えて来ない。
風の音、蘆の音、水の音、――それからどこかでけたたましく、蒼鷺の
啼く声がした。と思って立止ると、いつか潮がさし出したと見えて、黄泥を
洗う水の色が、さっきよりは間近に光っている。が、女は未だに来ない。
尾生は険しく眉をひそめながら、橋の下のうす暗い洲を、いよいよ足早に
歩き始めた。その内に川の水は、一寸ずつ、一尺ずつ、次第に洲の上へ上
って来る。同時にまた川から立昇る藻のや水のも、冷たく肌にまつわり出した。
見上げると、もう橋の上には鮮かな入日の光が消えて、ただ、石の橋欄
ばかりが、ほのかに青んだ暮方の空を、黒々と正しく切り抜いている。
が、女は未だに来ない。
尾生はとうとう立ちすくんだ。
川の水はもう沓を濡しながら、鋼鉄よりも冷やかな光を湛えて、漫々と
橋の下に広がっている。すると、膝も、腹も、胸も、恐らくは頃刻を
出ない内に、この酷薄な満潮の水に隠されてしまうのに相違あるまい。
いや、そう云う内にも水嵩は益高くなって、今ではとうとう両脛
さえも、川波の下に没してしまった。が、女は未だに来ない。
尾生は水の中に立ったまま、まだ一縷の望を便りに、何度も橋の空へ眼をやった。
腹を浸(ひた)した水の上には、とうに蒼茫たる暮色が立ち罩めて、
遠近に茂った蘆や柳も、寂しい葉ずれの音ばかりを、ぼんやりした靄の中
から送って来る。と、尾生の鼻を掠めて、鱸らしい魚が一匹、ひらりと
白い腹を飜した。その魚の躍った空にも、疎ながらもう星の光が見えて、
蔦蘿のからんだ橋欄の形さえ、いち早い宵暗の中に紛(まぎ)れている。
が、女は未だに来ない。……
―――――――――――――――――――――――――
夜半、月の光が一川の蘆と柳とに溢(あふ)れた時、川の水と微風とは
静に囁き交しながら、橋の下の尾生の死骸を、やさしく海の方へ運んで行った。
が、尾生の魂は、寂しい天心の月の光に、思い憧れたせいかも知れない。
ひそかに死骸を抜け出すと、ほのかに明るんだ空の向うへ、まるで水のや
藻のが音もなく川から立ち昇るように、うらうらと高く昇ってしまった。……
それから幾千年かを隔てた後、この魂は無数の流転を閲して、また生を
人間(じんかん)に託さなければならなくなった。それがこう云う私に
宿っている魂なのである。だから私は現代に生れはしたが、何一つ意味の
ある仕事が出来ない。昼も夜も漫然と夢みがちな生活を送りながら、ただ、
何か来(きた)るべき不可思議なものばかりを待っている。
ちょうどあの尾生が薄暮の橋の下で、
永久に来ない恋人をいつまでも待ち暮したように。
(大正八年十二月)
★底本:「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年12月1日第1刷発行
★青空文庫より転載
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これは メッセージ 506 (ajisai110701 さん)への返信です.
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