紫陽花亭日乗

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提婆達多 ⑱

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/07/15 20:46 投稿番号: [101 / 735]
提婆達多は頚筋に冷たいものが落ちるのを覚えて顔をあげた。
ヤショダラの涙だった。彼女は息もつげぬほどに泣いた。

無言の幾分が過ぎ、提婆達多はおずおずと問うた。

「あなたは私を棄てるのですか」

ヤショダラは両手で顔をかくしたままかすかに頭をふった。
提婆達多は立ち上がり、彼女に寄り添って腰をおろし、
横抱きに彼女を抱きしめ、彼女の耳たぶに熱い唇をおしつけた。


廊下で彼を捜している人声が聞こえた。
提婆達多はたちあがり、二足三足戸口へと足を運んだ。

ヤショダラは驚かされた鳥のように立ち上がり、彼の名を呼んだ。

「提婆達多」

呼びかけながらあとを追って、ふりかえる彼の頚にしがみついた。

「もう一度して」

そして提婆達多の胸に顔をかくしてよよと泣いた。
彼は身をかがめつつ涙にぬれたヤショダラの頬に接吻をして
なだめるように背をさすりながら、

「またあいましょう」

とやさしく言葉をのこしてたち去った。


彼の良心の影は已にうすくなっていた。
そこには勝利の得意が頭を擡げかけていた。

否、彼の懺悔は血の出るほどの真実であった。
とはいえ、提婆達多は一方に、あの堪えがたい不安の状態から一刻もはやく
逃れんために己が結局の勝利に対する無意識的自信をもって彼女のまえに
懺悔したのではなかったろうか。

今や彼は陥穽にむかって歩みよる獅子を待つ猟師の心持をもって
シッタルタの帰城を待ち設けた。
彼は、己自ら仏陀たり得ざるのみならず、他人が仏陀であり、
仏陀であり得ることをさえ信じ得なかったのである。

つづく



◆提婆達多の懺悔は、
ひとえに己れ自身のためにだけに行われた愚かなエゴでした。
非常にあさはかな行為だったといえるでしょう。
この軽挙妄動がのちにとりかえしのつかない悲劇を招く
重大な要因となります。


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