李朝朝鮮

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Re: お金の話②

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/04/05 09:58 投稿番号: [30 / 1329]
>その後、1633年に「常平通宝」が発行されました。
以後、1679年に当二銭(二銭通貨)が発行され、1752年には中型の当一銭が、さらに1778年には小型の当一銭が発行されました。
また1882年には、開港後の財政難を補填する目的で当五銭が発行されました

このあたりのことを黄文雄の
「歪められた朝鮮総督府:だれが“近代化”を教えたか」、光文社刊\800.-
にてみつけました。
http://japanese.joins.com/forum/board/view.php?no=39898&page=1
該当部分を抜粋しておきます。

  朝鮮半島は、新羅が統一して以来、千年以上たって、李朝末期に初めて「建陽」「光武」などの年号が作られた。それまでは、ずっと中国王朝の「正朔を奉じ」ていたので、宗主国「元」「明」「清」などの年号を使用し、通貨には年号が無く、「葉銭」は李朝16代国王・仁祖11年(1633年)以来263年間も使われてきたが、銭文は年号ではなく、「常平庁」という官庁名であった。
  しかも、朝鮮通貨の鋳造は、この「常平庁」という特定官庁で作られていたとは限らず、長く専門の官庁が無かった。鋳造所は一定せず、所管も時によって異なったので、「葉銭」の大きさ、量目、品位が全くばらばらで不一致であった。
  鋳造を請け負った民間の工匠は、5日間鋳造を行なえば、1日間の私的鋳造ができるので、官商結託し、不正を行なった。政府の財政事情の悪化につれて、改鋳の度に品質が低下、量目を減らすといった、全く鋳造差益だけを目的とするものさえあった。当然の事ながら、悪貨は良貨を駆逐する経済原理が働く事になった。
  目賀田顧問が着任した頃の調査によれば、流通していた「葉銭」は、なんと1553種。同顧問の下で、貨幣整理を務めた造幣局技師・西尾守行氏の調査によれば、漢字で示される官庁名だけでも39箇所に及んでいる。
  目賀田財政顧問が通貨整理に着手する際、数十種類の「葉銭」の大きさ、厚さ、重量、品質を比べると、極端なものとしては、直径の大きなものが1寸3厘、小さいものは7分2厘、厚さは5厘から2厘、重量は2匁2分から9分迄であった。銅貨の純度も不一致で、鉄と砂を入れた物まで発見されている。
  このような「葉銭」がそれぞれ1枚1文として混用されれば、「悪貨が良貨を駆逐」して、自然に悪貨が市場に溢れ、貨幣流通は一層乱れていくことは当然であろう。
  それでも李朝政府は、財政諸費用を捻出するために、更に悪知恵を働かせ、宗主国の「清朝」を真似して、数度も「大銭」を鋳造した。最も悪名高き「大銭」は、暴挙とまで言われる、1886年に鋳造された物だ。大院君が火災に遭った景福宮再建の工事費捻出の財源として鋳造した「当百銭」で、実質的価値は30分の1だから、市民に反対され、円滑に流通させることが出来ず、止めざるを得なかった。

  閔一族政権下ではまた、1883年から「当五銭」と呼ばれる大銭が造られ、政府が強制的に流通させたが、ソウル周辺でしか流通しなかった。実質的価値は普通の「葉銭」と殆ど変わらないからである。同じ通貨でも、当時、ソウル周辺と地方では、貨幣価値が異なっていた。地方の一両はソウルの五両にも相当するので、「1国2通貨」になっていた。地方では、「当五銭」を5銭として認めず、「葉銭」5銭も1銭も銅貨として混用していた。
  「葉銭」は通貨としては、流通面でかなり不便な物である。目賀田財政顧問下の財務官で通貨整理に携わった高久敏男氏の著書「李朝末期の通貨とその整理」によれば、日本円・1円50銭に相当する「葉銭」の重量は、実に2貫匁、積み重ねると5尺の高さに達する。運搬上極めて不便であるだけでなく、たったの18円75銭にしか相当しない125両の「葉銭」は、目方にして93.75キロ、計12500枚となるので、数えるだけでも、1枚1秒で計算すると、3時間11分も必要となる。だから不便極まりなかった。当時、日本人が朝鮮で行った土地売買の代金は、千円単位で計算するので、数人分担で検算しても、早朝から日没に至るまでやっても終わらなかった」という。
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