●朝鮮半島の倭
投稿者: ex_kuzumi 投稿日時: 2006/05/19 19:52 投稿番号: [2762 / 6952]
朝鮮半島最南部の沿岸部と島嶼部一帯には、紀元前の早くから水人(海人)が住みついていて、彼らの居住地帯を倭と呼んでいた。中国で広義にいう倭人とは、頭髪が短く刺青をしていて、猫背で腰をかがめて歩く水人のことを指していたらしい。(『馬の文化と船の文化』福永光司/人文書院)
こうした人たちが、長江河口を含む東シナ海沿岸部から朝鮮半島北部の沿岸地域まで広範囲に居住していて、漁労と水田耕作を営んでいたのだそうである。こうした水人の居住地帯とされた大陸沿岸から朝鮮半島、日本列島に至る沿岸部こそ、アサリの生息地とまったく重なっている。
「韓は帯方の南にあり。東西は海をもって限りをなし、南は倭と接す」。
「東西は海が韓の地の境界となり、南は倭と接している」。ということは、南は海が韓の領域境界になっているのではなく倭と接していて、その半島の倭の尽きたところが海になる。つまり、「南は倭と接す」という表現でもって、半島の南端に倭があったことを告げているのである。かくいう明確な論拠がある。
現実問題として、魏の調査官たちは半島から海を渡って列島に来ている。したがって、「半島の南も海をもって限りとなす」、この明確な事実を知らなかったはずはない。もちろん、1000里も海を隔てた対馬をして、「倭と接す」と書くはずもないのである。
この『韓伝』のいう倭こそが、中国歴代の歴史書が記録してきた「朝鮮半島の倭」であることは疑いようがない。ここでは『倭人伝』を収録した東夷伝の中の韓伝にすら、「倭」や「倭に近いところでは」といった、列島の倭とは別に、半島にも倭が登場することをしっかり認識しておきたい。
●なぜ『倭人伝』なのか
秦代から後漢代を通じて、中国人の感覚では陸地の終りは朝鮮半島で、ここが中国人のいう「東夷」でもあった。それまでは、中国人のいう倭人とは、半島沿岸に居住していた倭人の域を出ていない。
魏からやってきた調査団は、中国の歴史上はじめて列島の倭を確認した。中国にとっては、民族学的・地理学的大発見といってもおかしくはなかった。その調査記録を受けて東夷伝を編纂する側としては、朝鮮半島の倭と列島の倭に何らかの区別をつけなければならない。かといって、夫余や韓と同じように民族や土地の名をとって「倭伝」とすれば、それに先だって紹介してきた「半島の倭」と混同してしまう。そんな事情があって、東夷伝の中でも列島の倭に限って、異例にも「倭人」としたと推察できる。
かくして魏による諸国の調査が進むと、列島倭人の存在確認はもちろんのこと、半島の倭人たちは韓人とワイ人に混じって暮らしていて、かなり広範囲に進出していたこと。互いの人種が混住する地域では、ボーダーレス時代から根づいていた倭(倭人居住地域)があって、倭人文化が浸透していた様子などが、具体的に把握されることになる。
そこで、『三国志』韓伝の問題の記録。まだ、列島の存在が確認される以前の話ですが、間違われやすい部分なので整理しましょう。
「後漢末、献帝の建安年間のこと。遼東太守・公孫康が、屯有県から南を楽浪郡から分離して帯方郡を設置する。続いて韓とワイを攻略した。これによって、それまで楽浪郡に所属していた倭と韓も、帯方郡に所属することになった」
「公孫氏が朝鮮半島に勢力を広げて帯方郡をおいたことで、半島の沿岸地帯にあった倭も帯方郡に所属した理屈になる。この歴史的経緯を述べた『東夷伝』韓伝の記録を、列島の倭国全体が帯方郡の支配下にあったように解釈する。その勢いのまま、「魏が公孫氏から帯方郡を奪還した時点で、三韓も列島の倭国も自動的に帯方郡の支配下におかれた」と、三段論法されてきた節があります。
遼東郡は長城の東端に位置し、東夷と北方民族の動向監視と侵入を防ぐ要衝だった。そのために、周王朝期に燕が遼東郡を設置して以来、秦・前漢・後漢と引き継がれ、中原政府が任命した太守が着任してきた。238年。司馬懿の出征によって公孫氏から遼東、楽浪、帯方の三郡を奪還した魏は、247〜8年ごろ、楽浪と帯方二郡をあげて韓族を支配下に置こうとした。少なくともこの時点まで三韓は魏の支配下になかった。
倭国は、その遥か彼方。大海の中にある藩外の独立国ですから。
●当時、「倭」にいる「倭人」以外に、半島に「倭人」がいたわけだ。これは事実だ。
というわけで、事実です。はい。
こうした人たちが、長江河口を含む東シナ海沿岸部から朝鮮半島北部の沿岸地域まで広範囲に居住していて、漁労と水田耕作を営んでいたのだそうである。こうした水人の居住地帯とされた大陸沿岸から朝鮮半島、日本列島に至る沿岸部こそ、アサリの生息地とまったく重なっている。
「韓は帯方の南にあり。東西は海をもって限りをなし、南は倭と接す」。
「東西は海が韓の地の境界となり、南は倭と接している」。ということは、南は海が韓の領域境界になっているのではなく倭と接していて、その半島の倭の尽きたところが海になる。つまり、「南は倭と接す」という表現でもって、半島の南端に倭があったことを告げているのである。かくいう明確な論拠がある。
現実問題として、魏の調査官たちは半島から海を渡って列島に来ている。したがって、「半島の南も海をもって限りとなす」、この明確な事実を知らなかったはずはない。もちろん、1000里も海を隔てた対馬をして、「倭と接す」と書くはずもないのである。
この『韓伝』のいう倭こそが、中国歴代の歴史書が記録してきた「朝鮮半島の倭」であることは疑いようがない。ここでは『倭人伝』を収録した東夷伝の中の韓伝にすら、「倭」や「倭に近いところでは」といった、列島の倭とは別に、半島にも倭が登場することをしっかり認識しておきたい。
●なぜ『倭人伝』なのか
秦代から後漢代を通じて、中国人の感覚では陸地の終りは朝鮮半島で、ここが中国人のいう「東夷」でもあった。それまでは、中国人のいう倭人とは、半島沿岸に居住していた倭人の域を出ていない。
魏からやってきた調査団は、中国の歴史上はじめて列島の倭を確認した。中国にとっては、民族学的・地理学的大発見といってもおかしくはなかった。その調査記録を受けて東夷伝を編纂する側としては、朝鮮半島の倭と列島の倭に何らかの区別をつけなければならない。かといって、夫余や韓と同じように民族や土地の名をとって「倭伝」とすれば、それに先だって紹介してきた「半島の倭」と混同してしまう。そんな事情があって、東夷伝の中でも列島の倭に限って、異例にも「倭人」としたと推察できる。
かくして魏による諸国の調査が進むと、列島倭人の存在確認はもちろんのこと、半島の倭人たちは韓人とワイ人に混じって暮らしていて、かなり広範囲に進出していたこと。互いの人種が混住する地域では、ボーダーレス時代から根づいていた倭(倭人居住地域)があって、倭人文化が浸透していた様子などが、具体的に把握されることになる。
そこで、『三国志』韓伝の問題の記録。まだ、列島の存在が確認される以前の話ですが、間違われやすい部分なので整理しましょう。
「後漢末、献帝の建安年間のこと。遼東太守・公孫康が、屯有県から南を楽浪郡から分離して帯方郡を設置する。続いて韓とワイを攻略した。これによって、それまで楽浪郡に所属していた倭と韓も、帯方郡に所属することになった」
「公孫氏が朝鮮半島に勢力を広げて帯方郡をおいたことで、半島の沿岸地帯にあった倭も帯方郡に所属した理屈になる。この歴史的経緯を述べた『東夷伝』韓伝の記録を、列島の倭国全体が帯方郡の支配下にあったように解釈する。その勢いのまま、「魏が公孫氏から帯方郡を奪還した時点で、三韓も列島の倭国も自動的に帯方郡の支配下におかれた」と、三段論法されてきた節があります。
遼東郡は長城の東端に位置し、東夷と北方民族の動向監視と侵入を防ぐ要衝だった。そのために、周王朝期に燕が遼東郡を設置して以来、秦・前漢・後漢と引き継がれ、中原政府が任命した太守が着任してきた。238年。司馬懿の出征によって公孫氏から遼東、楽浪、帯方の三郡を奪還した魏は、247〜8年ごろ、楽浪と帯方二郡をあげて韓族を支配下に置こうとした。少なくともこの時点まで三韓は魏の支配下になかった。
倭国は、その遥か彼方。大海の中にある藩外の独立国ですから。
●当時、「倭」にいる「倭人」以外に、半島に「倭人」がいたわけだ。これは事実だ。
というわけで、事実です。はい。
これは メッセージ 2761 (ex_kuzumi さん)への返信です.
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