芸者は妓生に当たる存在ニダ 2
投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2008/04/13 14:38 投稿番号: [7410 / 10735]
―昔の赤坂の思い出を話して下さい。
「まだ半玉の時代だったから。ご飯をきちんと食べていくのも大変だったのに、思い出なんてね。若いときはいつもおなかをすかせているでしょう。それで朝ご飯を午前11時か、12時くらいに食べるの。(写真を示し)この頭、かつらじゃないのよ。朝、髪を整えてもらって、食堂でご飯を食べて。全部自分のお金でね。戦争前で、今とは違う時代だった」
―料亭でどんなことをしたのですか。
「そのころは礼儀作法が厳しかった。扉の開け方、部屋への入り方、あいさつの仕方、お酒の注ぎ方、所作のすべてに節度があって」
―置き屋で礼儀作法を別に習ったのですか。
「明治時代(1868‐1912)だったから、いすもなくて(正座の仕方を習ったという意味)。両親が厳しくて、礼儀を守らないとしかられたから。畳の縁に沿って歩かせたりね。礼儀作法は普通の家でもしっかり習っていたわ」
―赤坂の次はどこへ?
「東京の白山」。(東京大学のキャンパスがある本郷の近くで、アカデミックなイメージがある)
―白山にも花町があったのですか。
「すてきな花町だったわね。有名な場所に比べれば、規模は大きくないけれど。後楽園に大きな料亭があって、何度も呼ばれたわ。そして昭和33年(1958年)に熱海へ移ったから、20代から40代までずっと白山で過ごしたの」
―白山を離れた理由は?
「彼(恋人)が亡くなったから」
―彼との出会いは?
「日本は夏が暑いでしょう。だからみんな、普段から風に当たって…白山にある神社の近所で、風に当たりに来ていた彼と会ったの」
―結婚したのですか。
「どうして結婚を? 彼には家庭があったのよ。昔の芸者は、結婚なんて考えもしなかった。今の若い芸者は、“結婚、結婚”というけれど、昔の芸者たちは考えたこともなかったわ」
芸者には「愛しはしても、売春はしない」という原則がある。言い換えれば、「売春はしないけれど、恋愛はする」ということだ。昔の芸者の世界には「だんな」という存在があった。「だんな」は「夫」という意味だが、「芸者のだんな」とは、芸者の愛情を受ける代わりに経済的支援をする男性を意味する。
―年の差は?
「9歳上。亡くなってから今年で50年になっちゃった。わたしが病気を見つけたの。奥さんはいつも焼きもちばかりやいて、病気を見つけられなくて。千駄木にある病院にわたしが連れて行ったの。がんだったわ。クリスマスによくなって家に帰ったけれど、年が明けたらすぐに亡くなってしまって」
―熱海とはどんな縁が?
「このときも、19歳上の姉のけいこ仲間から紹介してもらったの。姉は勉強嫌い、芸を好む性格だから、夫を亡くした後また花柳界に戻ってね。熱海は正月に旅行に行く所だということしか知らなくて、置き屋があるのも知らなかった。3日間で熱海のいろんな所を知ったわ。当時の熱海は、お客さんでとても込んでいた所だったのよ」
―昔は熱海にも芸者が何百人もいたのに、いつから減り始めたんですか。
「大きな宴会がなくなったの。いつごろからかしら? お客さんの数が300人を超える宴会が年中あったのに、今はそんなことない。最近はほとんど“こま”(規模の小さな酒席のこと)ばかり。5人から10人くらい。実際のところ、これくらいが一番いい」
とはいえ、今でも熱海は日本最大の芸者街だ。230人余りの芸者が熱海で働いている。これは、日本にいる芸者全体の10%に当たる。
―バブルの時代までにぎわっていたのですか。
「それより前。クラブが出来て、カラオケが出来て、それで大きな宴会がなくなったの。みんな、好みに応じてばらばらと散ってしまうんだもの。そういうのがなかった時代は、みんな旅館の宴会場で始めて、宴会場で終わってた。最近では、ホステスとかカラオケが役目を果たしてるけど、以前は酒の席に興を添えることから歌の伴奏まで、全部芸者がやっていたの。夕方6時に始まって、2次会まで行けば10時でしょ。時には夜中の2時まで働いたことも。今はお座敷がすぐに終わってしまう。大体1次会で終わりね」
3に続きます。
「まだ半玉の時代だったから。ご飯をきちんと食べていくのも大変だったのに、思い出なんてね。若いときはいつもおなかをすかせているでしょう。それで朝ご飯を午前11時か、12時くらいに食べるの。(写真を示し)この頭、かつらじゃないのよ。朝、髪を整えてもらって、食堂でご飯を食べて。全部自分のお金でね。戦争前で、今とは違う時代だった」
―料亭でどんなことをしたのですか。
「そのころは礼儀作法が厳しかった。扉の開け方、部屋への入り方、あいさつの仕方、お酒の注ぎ方、所作のすべてに節度があって」
―置き屋で礼儀作法を別に習ったのですか。
「明治時代(1868‐1912)だったから、いすもなくて(正座の仕方を習ったという意味)。両親が厳しくて、礼儀を守らないとしかられたから。畳の縁に沿って歩かせたりね。礼儀作法は普通の家でもしっかり習っていたわ」
―赤坂の次はどこへ?
「東京の白山」。(東京大学のキャンパスがある本郷の近くで、アカデミックなイメージがある)
―白山にも花町があったのですか。
「すてきな花町だったわね。有名な場所に比べれば、規模は大きくないけれど。後楽園に大きな料亭があって、何度も呼ばれたわ。そして昭和33年(1958年)に熱海へ移ったから、20代から40代までずっと白山で過ごしたの」
―白山を離れた理由は?
「彼(恋人)が亡くなったから」
―彼との出会いは?
「日本は夏が暑いでしょう。だからみんな、普段から風に当たって…白山にある神社の近所で、風に当たりに来ていた彼と会ったの」
―結婚したのですか。
「どうして結婚を? 彼には家庭があったのよ。昔の芸者は、結婚なんて考えもしなかった。今の若い芸者は、“結婚、結婚”というけれど、昔の芸者たちは考えたこともなかったわ」
芸者には「愛しはしても、売春はしない」という原則がある。言い換えれば、「売春はしないけれど、恋愛はする」ということだ。昔の芸者の世界には「だんな」という存在があった。「だんな」は「夫」という意味だが、「芸者のだんな」とは、芸者の愛情を受ける代わりに経済的支援をする男性を意味する。
―年の差は?
「9歳上。亡くなってから今年で50年になっちゃった。わたしが病気を見つけたの。奥さんはいつも焼きもちばかりやいて、病気を見つけられなくて。千駄木にある病院にわたしが連れて行ったの。がんだったわ。クリスマスによくなって家に帰ったけれど、年が明けたらすぐに亡くなってしまって」
―熱海とはどんな縁が?
「このときも、19歳上の姉のけいこ仲間から紹介してもらったの。姉は勉強嫌い、芸を好む性格だから、夫を亡くした後また花柳界に戻ってね。熱海は正月に旅行に行く所だということしか知らなくて、置き屋があるのも知らなかった。3日間で熱海のいろんな所を知ったわ。当時の熱海は、お客さんでとても込んでいた所だったのよ」
―昔は熱海にも芸者が何百人もいたのに、いつから減り始めたんですか。
「大きな宴会がなくなったの。いつごろからかしら? お客さんの数が300人を超える宴会が年中あったのに、今はそんなことない。最近はほとんど“こま”(規模の小さな酒席のこと)ばかり。5人から10人くらい。実際のところ、これくらいが一番いい」
とはいえ、今でも熱海は日本最大の芸者街だ。230人余りの芸者が熱海で働いている。これは、日本にいる芸者全体の10%に当たる。
―バブルの時代までにぎわっていたのですか。
「それより前。クラブが出来て、カラオケが出来て、それで大きな宴会がなくなったの。みんな、好みに応じてばらばらと散ってしまうんだもの。そういうのがなかった時代は、みんな旅館の宴会場で始めて、宴会場で終わってた。最近では、ホステスとかカラオケが役目を果たしてるけど、以前は酒の席に興を添えることから歌の伴奏まで、全部芸者がやっていたの。夕方6時に始まって、2次会まで行けば10時でしょ。時には夜中の2時まで働いたことも。今はお座敷がすぐに終わってしまう。大体1次会で終わりね」
3に続きます。
これは メッセージ 7409 (jgeilsbandfreak さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/dabaafl1b2_1/7410.html