下條正男氏への批判、朝鮮史書改ざん説1
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2004/11/14 22:04 投稿番号: [6098 / 18519]
半月城です。
下條正男氏に対する批判を継続します。今回は同氏の主張する「ある朝鮮史書の改ざん」をとりあげます。「ある朝鮮史書」とは、英祖の命により編纂された百科全書風の文献である『東国文献備考』の「輿地考」をさします。
その史料が正しければ、そこに引用された『輿地志』逸文によると、朝鮮は日本の史書より先に于山島とされる松島(竹島=独島)を認識していたことになります。そのためか、この「輿地考」と『輿地志』(1656)の検討は同氏にとって非常に重要なポイントになるようです。
ここでいう日本の史書とは『隠州視聴合記』をさしますが、実際のところ、朝鮮の史書が竹島=独島を認識したのはその史書より前であろうと後であろうと領有権論争にはほとんど影響しません。
というのも、下記に書いたように『隠州視聴合記』の記述をみると、日本の限界は松島や竹島ではなく隠州であり、竹島(鬱陵島)は朱印船がいくような外国の島であると認識されていたので、この史料は領有権論争に影響しないからです。
<下條正男氏への批判、『隠州視聴合紀』>
http://www.han.org/a/half-moon/hm105.html#No.768
しかし『隠州視聴合記』(1767)こそが竹島=独島を歴史的に日本領とする不動の史料と誤解している下條氏にとっては、同書以前に竹島=独島を認識していた『輿地志』が存在したとなると、どうやら都合が悪いようです。
現在『輿地志』は伝わらず、引用文が『東国文献備考』と『疆界考』の二書に残されました。『疆界考』は、朝鮮歴代国家の領域を中心に記述した書ですが、両者とも申景濬が編纂しました。しかし、両書では輿地志からの引用の仕方が下記のように微妙にことなっています。
(1)『東国文献備考』「輿地考」(1770)
「輿地志がいうには 鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島なり(注1)」
(2)『疆界考』(1756)
「按ずるに 輿地志がいうには 一説に于山 鬱陵は 本一島 しかるに諸図志を考えるに二島なり 一つはすなわちいわゆる松島にして けだし二島ともにこれ于山国なり(注2)」
引用の体裁ですが、(1)は上記の一節だけを特に小さな字で、(2)は上記の一節のみを段落を変えて記しました。いずれも、上記の部分は特に他と区別されて記述されました。
つぎに内容ですが、表現はちがっても内容はほとんど同じとみられ、申景濬は『輿地志』の解釈として于山島は日本の松島であり、于山国に属するとしました。ところがこれに異をとなえたのが、くだんの下條正男氏でした。
同氏は『疆界考』における『輿地志』からの引用は「一説に于山 鬱陵 本一島」の部分のみで、それに続く「しかるに・・・」以下の部分は著者である申景濬の考察であると主張して『疆界考』をこう読みくだしました。
<按ずるに、「輿地志に云う、一説に于山 鬱陵 本一島」。而るに諸図志を考えるに二島なり。一つは則ち其の所謂 松島にして、蓋し二島ともに于山国なり(注3,P101)>
同氏によれば、『疆界考』において于山島が松島であると考察した者は申景濬であり、それを『東国文献備考』ではさも『輿地志』からの引用であるかのように書いたのであり、これは『輿地志』の改ざんであると断言しました。
しかし、そもそもある事柄を同じ著者がある本では他書からの引用とし、別の本では自説として書くなんてありうるでしょうか? これは、下記のように自説をしばしば変える下條氏ならでは発想といえるかもしれません。
<下條正男氏への批判、勅令41号>
http://www.han.org/a/half-moon/hm105.html#No.767
また、よしんばそうであったとしても『疆界考』における引用が単に「輿地志に云う、一説に于山 鬱陵 本一島」だけで終わるというのは、文脈上あまりにも不自然です。そもそも朝鮮史書で「一説」を持ちだすときは「本説」がともなうものであり、『世宗実録』など過去の文献でも本説と一説がともに書かれていました。
(つづく)
下條正男氏に対する批判を継続します。今回は同氏の主張する「ある朝鮮史書の改ざん」をとりあげます。「ある朝鮮史書」とは、英祖の命により編纂された百科全書風の文献である『東国文献備考』の「輿地考」をさします。
その史料が正しければ、そこに引用された『輿地志』逸文によると、朝鮮は日本の史書より先に于山島とされる松島(竹島=独島)を認識していたことになります。そのためか、この「輿地考」と『輿地志』(1656)の検討は同氏にとって非常に重要なポイントになるようです。
ここでいう日本の史書とは『隠州視聴合記』をさしますが、実際のところ、朝鮮の史書が竹島=独島を認識したのはその史書より前であろうと後であろうと領有権論争にはほとんど影響しません。
というのも、下記に書いたように『隠州視聴合記』の記述をみると、日本の限界は松島や竹島ではなく隠州であり、竹島(鬱陵島)は朱印船がいくような外国の島であると認識されていたので、この史料は領有権論争に影響しないからです。
<下條正男氏への批判、『隠州視聴合紀』>
http://www.han.org/a/half-moon/hm105.html#No.768
しかし『隠州視聴合記』(1767)こそが竹島=独島を歴史的に日本領とする不動の史料と誤解している下條氏にとっては、同書以前に竹島=独島を認識していた『輿地志』が存在したとなると、どうやら都合が悪いようです。
現在『輿地志』は伝わらず、引用文が『東国文献備考』と『疆界考』の二書に残されました。『疆界考』は、朝鮮歴代国家の領域を中心に記述した書ですが、両者とも申景濬が編纂しました。しかし、両書では輿地志からの引用の仕方が下記のように微妙にことなっています。
(1)『東国文献備考』「輿地考」(1770)
「輿地志がいうには 鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島なり(注1)」
(2)『疆界考』(1756)
「按ずるに 輿地志がいうには 一説に于山 鬱陵は 本一島 しかるに諸図志を考えるに二島なり 一つはすなわちいわゆる松島にして けだし二島ともにこれ于山国なり(注2)」
引用の体裁ですが、(1)は上記の一節だけを特に小さな字で、(2)は上記の一節のみを段落を変えて記しました。いずれも、上記の部分は特に他と区別されて記述されました。
つぎに内容ですが、表現はちがっても内容はほとんど同じとみられ、申景濬は『輿地志』の解釈として于山島は日本の松島であり、于山国に属するとしました。ところがこれに異をとなえたのが、くだんの下條正男氏でした。
同氏は『疆界考』における『輿地志』からの引用は「一説に于山 鬱陵 本一島」の部分のみで、それに続く「しかるに・・・」以下の部分は著者である申景濬の考察であると主張して『疆界考』をこう読みくだしました。
<按ずるに、「輿地志に云う、一説に于山 鬱陵 本一島」。而るに諸図志を考えるに二島なり。一つは則ち其の所謂 松島にして、蓋し二島ともに于山国なり(注3,P101)>
同氏によれば、『疆界考』において于山島が松島であると考察した者は申景濬であり、それを『東国文献備考』ではさも『輿地志』からの引用であるかのように書いたのであり、これは『輿地志』の改ざんであると断言しました。
しかし、そもそもある事柄を同じ著者がある本では他書からの引用とし、別の本では自説として書くなんてありうるでしょうか? これは、下記のように自説をしばしば変える下條氏ならでは発想といえるかもしれません。
<下條正男氏への批判、勅令41号>
http://www.han.org/a/half-moon/hm105.html#No.767
また、よしんばそうであったとしても『疆界考』における引用が単に「輿地志に云う、一説に于山 鬱陵 本一島」だけで終わるというのは、文脈上あまりにも不自然です。そもそも朝鮮史書で「一説」を持ちだすときは「本説」がともなうものであり、『世宗実録』など過去の文献でも本説と一説がともに書かれていました。
(つづく)
これは メッセージ 6058 (hangetsujoh さん)への返信です.
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