国境画定機関の竹島=独島認識3
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2004/05/30 22:24 投稿番号: [4941 / 18519]
第2期.竹島=独島の「領土編入」期
海軍の認識に変化があらわれたのは、1905年の閣議で竹島=独島を日本領へ「領土編入」した後でした。海軍はこの時から同島を日本領と認識しました。
ここの掲示板で一部の憶測に、竹島=独島の「領土編入」は官報に告示されず、ましてや関係国にも告知されずにこっそり行われたので、海軍すらその事実を知らなかったのではないかとする見方もありましたが、これは日本帝国の行政機構を甘く見ています。
「領土編入」という重大事項が閣議で決定されたのに、日本の国境を画定する部門である海軍水路部がそれを知らないはずはありません。
あまつさえ、海軍水路部は「領土編入」の直前に竹島=独島の所属を当該部署として質問されているので、もちろん「領土編入」の動きを熟知していました。そうした経緯を1906年の「竹島視察員」のひとりである奥原碧雲はこう記しました。
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中井養三郎氏はリヤンコ島(竹島=独島)を朝鮮の領土と信じ、同國政府に貸下願の決心を起し、三十七年の漁期終るや、直ちに上京して、隠岐出身なる農商務省水産局員 藤田勘太郎氏に圖り、牧水産局長に面會して陳述する所ありき。
同氏またこれを賛し、海軍水路部につきて、リヤンコ島の所属を確めしむ。中井氏即ち肝付水路部長に面會して、同島の所屬は、確乎たる徴證なく、ことに、日韓両本國よりの距離を測定すれば、日本の方十浬近し、加ふるに、日本人にして、同島經營に從事せるものある以上は、日本領に編入する方 然るべしとの説を聞き、中井氏は遂に意を決して、リヤンコ島 領土編入並に貸下願を、内務 外務 農商務三大臣に提出せり(注4)。
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軍人である肝付兼行 水路部長はリヤンコ島(竹島=独島)を「無主地」のごとく中井に回答したようですが、実はこの人こそ同島を朝鮮所属と判断し、それを『日本水路誌』でなく『朝鮮水路誌』に入れて刊行した責任者でした。
肝付はリヤンコ島が朝鮮領であることを知ったうえで、日露戦争を有利に遂行するため、竹島=独島に望楼を築いてロシア艦を監視するという軍事利用に協力すべく、同島の「領土編入」を後押しした人物でした。その目的のためにウソも方便でリヤンコ島を「無主地」と強弁したとみられます。
こうして 1905年の「領土編入」以後、海軍は竹島=独島を日本領土として認識し、それを資料にも反映しました。編入前の『日本水路誌』第四巻では竹島=独島が記述されなかったのを改め、同巻第一改版には同島を“竹島[Liancourt rocks]”の名称で挿入しました。さらに日本領になったことを明確にするため、文末に「明治三十八年島根縣ノ所管ニ編入セラレタリ」との説明を加えました。
そうなると『朝鮮水路誌』をどのように改訂するかが問題になります。竹島=独島を日本領としたので、『朝鮮水路誌』の性格からすると「リアンコールト列岩」を削除するのが筋道なのでしょうが、公的資料の性格上そう簡単にはいきません。一般論として公的資料に新たな項目を追加するのは比較的問題が少ないのですが、従来の項目を削除するとなるととかく支障をきたしがちです。
とくに竹島=独島は、日本では長久保赤水の地図などをはじめとして、ほとんどの資料にみられるように鬱陵島とペアであるという意識が強かっただけに、両者を切り離して竹島=独島だけを削除するのは問題が多かったとみられます。結局『朝鮮水路誌』第2改版でも同島を残しました。
そのかわり、島の名前を「リアンコールト列岩」から“竹島[Liancourt rocks]”に変更しました。明らかに同島は日本領という海軍の認識を反映した結果です。これらの資料一覧は下記のとおりです。
5) 1907年『日本水路誌』第4巻、第1改版、第3編 本州北西岸、竹島[Liancourt rocks]
6) 1907年『朝鮮水路誌』第2改版、第5編 日本海及朝鮮東岸、竹島[Liancourt rocks](注3)
(つづく)
海軍の認識に変化があらわれたのは、1905年の閣議で竹島=独島を日本領へ「領土編入」した後でした。海軍はこの時から同島を日本領と認識しました。
ここの掲示板で一部の憶測に、竹島=独島の「領土編入」は官報に告示されず、ましてや関係国にも告知されずにこっそり行われたので、海軍すらその事実を知らなかったのではないかとする見方もありましたが、これは日本帝国の行政機構を甘く見ています。
「領土編入」という重大事項が閣議で決定されたのに、日本の国境を画定する部門である海軍水路部がそれを知らないはずはありません。
あまつさえ、海軍水路部は「領土編入」の直前に竹島=独島の所属を当該部署として質問されているので、もちろん「領土編入」の動きを熟知していました。そうした経緯を1906年の「竹島視察員」のひとりである奥原碧雲はこう記しました。
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中井養三郎氏はリヤンコ島(竹島=独島)を朝鮮の領土と信じ、同國政府に貸下願の決心を起し、三十七年の漁期終るや、直ちに上京して、隠岐出身なる農商務省水産局員 藤田勘太郎氏に圖り、牧水産局長に面會して陳述する所ありき。
同氏またこれを賛し、海軍水路部につきて、リヤンコ島の所属を確めしむ。中井氏即ち肝付水路部長に面會して、同島の所屬は、確乎たる徴證なく、ことに、日韓両本國よりの距離を測定すれば、日本の方十浬近し、加ふるに、日本人にして、同島經營に從事せるものある以上は、日本領に編入する方 然るべしとの説を聞き、中井氏は遂に意を決して、リヤンコ島 領土編入並に貸下願を、内務 外務 農商務三大臣に提出せり(注4)。
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軍人である肝付兼行 水路部長はリヤンコ島(竹島=独島)を「無主地」のごとく中井に回答したようですが、実はこの人こそ同島を朝鮮所属と判断し、それを『日本水路誌』でなく『朝鮮水路誌』に入れて刊行した責任者でした。
肝付はリヤンコ島が朝鮮領であることを知ったうえで、日露戦争を有利に遂行するため、竹島=独島に望楼を築いてロシア艦を監視するという軍事利用に協力すべく、同島の「領土編入」を後押しした人物でした。その目的のためにウソも方便でリヤンコ島を「無主地」と強弁したとみられます。
こうして 1905年の「領土編入」以後、海軍は竹島=独島を日本領土として認識し、それを資料にも反映しました。編入前の『日本水路誌』第四巻では竹島=独島が記述されなかったのを改め、同巻第一改版には同島を“竹島[Liancourt rocks]”の名称で挿入しました。さらに日本領になったことを明確にするため、文末に「明治三十八年島根縣ノ所管ニ編入セラレタリ」との説明を加えました。
そうなると『朝鮮水路誌』をどのように改訂するかが問題になります。竹島=独島を日本領としたので、『朝鮮水路誌』の性格からすると「リアンコールト列岩」を削除するのが筋道なのでしょうが、公的資料の性格上そう簡単にはいきません。一般論として公的資料に新たな項目を追加するのは比較的問題が少ないのですが、従来の項目を削除するとなるととかく支障をきたしがちです。
とくに竹島=独島は、日本では長久保赤水の地図などをはじめとして、ほとんどの資料にみられるように鬱陵島とペアであるという意識が強かっただけに、両者を切り離して竹島=独島だけを削除するのは問題が多かったとみられます。結局『朝鮮水路誌』第2改版でも同島を残しました。
そのかわり、島の名前を「リアンコールト列岩」から“竹島[Liancourt rocks]”に変更しました。明らかに同島は日本領という海軍の認識を反映した結果です。これらの資料一覧は下記のとおりです。
5) 1907年『日本水路誌』第4巻、第1改版、第3編 本州北西岸、竹島[Liancourt rocks]
6) 1907年『朝鮮水路誌』第2改版、第5編 日本海及朝鮮東岸、竹島[Liancourt rocks](注3)
(つづく)
これは メッセージ 4940 (hangetsujoh さん)への返信です.
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