>「本島官制改編請議書」
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/01/26 22:13 投稿番号: [3290 / 18519]
この資料は私も未見でした。公開されているのでしょうか。どうも聞かない資料ですが…(沈郡主・李斉純らの独島関連行政文書はなぜか存在が知られるも未公開)。どこかネットや単行本で手軽に見られるものであればぜひ読みたいです。
>李奎遠の報告が勅令41号の根拠になったと思われる痕跡は今のところないでしょう。
李奎遠の報告は勅令に直接には関係ないと思います。しかし、私が注目しているのはそこに独島が意識されておらず、于山島がどうも観音島に見えるという点です。
そして、1899年に禹用鼎を団長として調査団が派遣されましたが、それに同行したのがフランス人・ラボーテでした。ラボーテは帰島して「皇城新聞」に記事を載せています。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=2772
ここには「蔚珍之東海に一島が有り、曰く鬱陵である。其の附属した小六島の中で最著なのは于山島・竹島であるが、大韓地誌に曰く、鬱陵島は古の于山国である。四方が百里あり、三峰が律兀たるが、所産は…」とあります。「最著」は最も目立つぐらいかと思います。
この記事を見ると内容は全てにわたって鬱陵島のことに一貫しています。于山島の話は何も出てきません。私はこの于山島も実は観音島だったのではないかと思っているのです。
竹島・于山島が「最著」として並べて書かれていることも、于山島が独島であれば不釣合いな感が有ります。独島は最著というほどに目立つ存在でもなく、山に登って運がよければ見える程度なのですから。
あくまで禹用鼎ではなくラボーテによる記事なのかもしれませんが、この調査を受けて公布されたのがほかでもなく勅令41号でした。
ついでですが、大韓帝国学部編『大韓全図』『大韓輿地図』(ともに1899年)でもともに島の北東の島を「于山」としています。ご丁寧なことに前者の地図では于山より大きい島が南に記されてもいます。ともに観音島に一致しています。
私はこういう全てのことが全てつながっていると考えています。ただし、于山島が歴史においてつねに観音島であったかどうかは分かりません。おそらく竹嶼でもあったものと思います。
>李奎遠の報告が勅令41号の根拠になったと思われる痕跡は今のところないでしょう。
李奎遠の報告は勅令に直接には関係ないと思います。しかし、私が注目しているのはそこに独島が意識されておらず、于山島がどうも観音島に見えるという点です。
そして、1899年に禹用鼎を団長として調査団が派遣されましたが、それに同行したのがフランス人・ラボーテでした。ラボーテは帰島して「皇城新聞」に記事を載せています。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=2772
ここには「蔚珍之東海に一島が有り、曰く鬱陵である。其の附属した小六島の中で最著なのは于山島・竹島であるが、大韓地誌に曰く、鬱陵島は古の于山国である。四方が百里あり、三峰が律兀たるが、所産は…」とあります。「最著」は最も目立つぐらいかと思います。
この記事を見ると内容は全てにわたって鬱陵島のことに一貫しています。于山島の話は何も出てきません。私はこの于山島も実は観音島だったのではないかと思っているのです。
竹島・于山島が「最著」として並べて書かれていることも、于山島が独島であれば不釣合いな感が有ります。独島は最著というほどに目立つ存在でもなく、山に登って運がよければ見える程度なのですから。
あくまで禹用鼎ではなくラボーテによる記事なのかもしれませんが、この調査を受けて公布されたのがほかでもなく勅令41号でした。
ついでですが、大韓帝国学部編『大韓全図』『大韓輿地図』(ともに1899年)でもともに島の北東の島を「于山」としています。ご丁寧なことに前者の地図では于山より大きい島が南に記されてもいます。ともに観音島に一致しています。
私はこういう全てのことが全てつながっていると考えています。ただし、于山島が歴史においてつねに観音島であったかどうかは分かりません。おそらく竹嶼でもあったものと思います。
これは メッセージ 3288 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/3290.html