>竹島外一島
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/01/12 01:06 投稿番号: [2884 / 18519]
私の考え方はこのトピの主な傾向とは少し違うかもしれません。あるいは、私は大西俊輝の立場に近いのかも知れません。そのあたりご理解ください。以下、あくまで私の理解です。
内務省と太政官が地籍の判断を下すにあたっての文書はまず島根県の伺いがあり、それに対して返答したものですから、原則として内務省・太政官の返答は島根県が提示した竹島・松島を前提としたものと考えます。
さて、ここで問題となるのは、この判断において松島がどこを指したかです。私は基本的に鬱陵島と于山島は日本領ではないという理解が内務省・太政官にあったものと推測しています。
いわば鬱陵島と于山島の一括論ですがこれは朝鮮の地図によれば当然に大変に近く記されています。于山島は基本的には竹嶼(19世紀末あたりは于山島は観音島でもあったと思います)でしょう。
それが日本において竹島・松島に比定されたのではないでしょうか。そもそも日本において伝統的な竹島・松島の理解の一方で地理的な混乱もありました。シーボルトの地図以来、当時、松島が鬱陵島であるという見方はかなり広くあったもののようです。
さきに触れたように、勝海舟の地図(1867)・橋本玉蘭(1870)のものも西洋の混乱を引き継いだものでしょう。さらに、陸軍参謀局の朝鮮全図(1875)と文部省の日本全図(1877)も鬱陵島が竹島と松島として描かれています。
結局、太政官の判断は、地図で言えば、リアンクール岩が近くにあり、次に松島(ダジュレー島)、その向こうに竹島(=アルゴノート島)を考えたのではないでしょうか。
あるいは松島の正確な地理は不明にしても朝鮮の地図に則ってかなり近い島として考えられる于山島・鬱陵島を松島・竹島として一括ひっくるめて本邦外とし、その一括判断のみを示したのかもしれません。
これは推測です、しかし、こうした情況の中で「外一島」(1877)の三年後、1880年には実際に軍艦天城の調査によって鬱陵島が松島に確定しています。こういう確定は突然の産物ではなくそれなりの背景がすでにあったということです。
私が「外一島」を松島=鬱陵島と見る理由を整理すると次のとおりです。
①当時の多くの地図が松島=鬱陵島であったこと。
②外務省、文部省、陸軍に地理的な混乱が見られ松島=鬱陵島が不自然でないこと。
③3年後に実測調査により松島=鬱陵島が確定していること。
などです。
少なくとも当時の日本にあった理解はリアンクール島・松島・竹島の存在が海中にあるというものであり、朝鮮にあったのは鬱陵島と于山島が海中にあるというものだったことでしょう。(のちには鬱陵島と松竹島と于山島を把握した高宗もいましたが)
こうした観念をどう重ね合わせるかということではないでしょうか。可能性は
1)松島=鬱陵島、竹島=架空の鬱陵島
2)鬱陵島に二島あり、松島=鬱陵島の近い方(于山島)、竹島=鬱陵島の遠い方
だけかと思います。私はさしあたり1)を取った次第ですが、2)にしてもさほど内容は変わりません。
なお、私は石島については観音島を考えています。日本も松島を見失う時期がありましたが、朝鮮も于山島を極めて観念的にしかとらえていなかったようです。
内務省と太政官が地籍の判断を下すにあたっての文書はまず島根県の伺いがあり、それに対して返答したものですから、原則として内務省・太政官の返答は島根県が提示した竹島・松島を前提としたものと考えます。
さて、ここで問題となるのは、この判断において松島がどこを指したかです。私は基本的に鬱陵島と于山島は日本領ではないという理解が内務省・太政官にあったものと推測しています。
いわば鬱陵島と于山島の一括論ですがこれは朝鮮の地図によれば当然に大変に近く記されています。于山島は基本的には竹嶼(19世紀末あたりは于山島は観音島でもあったと思います)でしょう。
それが日本において竹島・松島に比定されたのではないでしょうか。そもそも日本において伝統的な竹島・松島の理解の一方で地理的な混乱もありました。シーボルトの地図以来、当時、松島が鬱陵島であるという見方はかなり広くあったもののようです。
さきに触れたように、勝海舟の地図(1867)・橋本玉蘭(1870)のものも西洋の混乱を引き継いだものでしょう。さらに、陸軍参謀局の朝鮮全図(1875)と文部省の日本全図(1877)も鬱陵島が竹島と松島として描かれています。
結局、太政官の判断は、地図で言えば、リアンクール岩が近くにあり、次に松島(ダジュレー島)、その向こうに竹島(=アルゴノート島)を考えたのではないでしょうか。
あるいは松島の正確な地理は不明にしても朝鮮の地図に則ってかなり近い島として考えられる于山島・鬱陵島を松島・竹島として一括ひっくるめて本邦外とし、その一括判断のみを示したのかもしれません。
これは推測です、しかし、こうした情況の中で「外一島」(1877)の三年後、1880年には実際に軍艦天城の調査によって鬱陵島が松島に確定しています。こういう確定は突然の産物ではなくそれなりの背景がすでにあったということです。
私が「外一島」を松島=鬱陵島と見る理由を整理すると次のとおりです。
①当時の多くの地図が松島=鬱陵島であったこと。
②外務省、文部省、陸軍に地理的な混乱が見られ松島=鬱陵島が不自然でないこと。
③3年後に実測調査により松島=鬱陵島が確定していること。
などです。
少なくとも当時の日本にあった理解はリアンクール島・松島・竹島の存在が海中にあるというものであり、朝鮮にあったのは鬱陵島と于山島が海中にあるというものだったことでしょう。(のちには鬱陵島と松竹島と于山島を把握した高宗もいましたが)
こうした観念をどう重ね合わせるかということではないでしょうか。可能性は
1)松島=鬱陵島、竹島=架空の鬱陵島
2)鬱陵島に二島あり、松島=鬱陵島の近い方(于山島)、竹島=鬱陵島の遠い方
だけかと思います。私はさしあたり1)を取った次第ですが、2)にしてもさほど内容は変わりません。
なお、私は石島については観音島を考えています。日本も松島を見失う時期がありましたが、朝鮮も于山島を極めて観念的にしかとらえていなかったようです。
これは メッセージ 2883 (tydkemvo さん)への返信です.
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