国家の重大事
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2004/01/11 15:37 投稿番号: [2873 / 18519]
半月城です。
ahirutousagi2さん、RE:2808
>明らかなことは天城の調査によって鬱陵島が松島であると判断されたことです。明治10年(1877)年の太政官判断の時点で混乱は一貫して全く無かったが明治13年(1880)年の天城の調査時点で初めて島名の混乱が生じたとするのは不自然であるといわざるを得ません。
これは私の主張を誤解しているのでしょうか? 私は #2804でこう記しました。
> その(島根県伺書の)わずか3か月前、ロシアのウラジオストック在留の青森県士族・武藤平学は、鬱陵島の材木伐採や鉱山開発などの計画をたて、外務省に「松島開拓之議」を提出しました。外務省における島名混乱の始まりです。
私は上記のように、外務省における島名の混乱を天城による調査時点でなく、その4年前においています。逆に天城の調査で混乱が終息に入ったと考えています。その結末は古来の松島の島名が消え、かわりに鬱陵島を松島と命名する方向でした。
一方、外務省とは別に島根県や内務省の伺書において島名の混乱は微塵もみられませんでした。島根県や内務省、太政官は古来の松島、竹島をその「船路」まで確認したのですから、混乱がおきなかったのは当然と考えています。
>一言で申しますと、このとき内務省・太政官にあったのは竹島・松島一括の原則という判断であり、松島そのものの地理的な把握は必ずしも確立していなかったものと思われるということです。
一般論でいえば、太政官決定は新政府樹立10年の時点であり、当時は西南戦争など政府は混乱し行政機構が盤石でなかったので政府の措置が万全でなかった可能性はあります。しかし、内務省や太政官は「版図の取捨は国家の重大事」という緊迫した認識をもって、ほとんど不備や欠点のみられない資料をもとに古来の松島、竹島の放棄を決めました。
ahirutousagi2さんはそうした決定の過程を知りつつも、明確な根拠なしに内務省や太政官は「松島そのものの地理的な把握は必ずしも確立していなかった」と推測するのはいかがなものでしょうか?
ahirutousagi2さんは、内務省や太政官は「国家の重大事」を決定するにあたり、判断に必要な最小限の「地理的把握」すら行わなかったと指摘するものでしょうか? それは内務省や太政官の行政手腕を貶める意図でしょうか?
ちなみに内務省の慎重さをうかがわせる資料がもうひとつあります。天城による「松島」調査の翌年に内務省は外務省に照会状を送りましたが、それを堀和生氏はこう記しました。
「後81年11月29日、内務省が竹島と松島を版図外とした先述の太政官の指令書きを付して、外務省に鬱陵島の現状を照会したことがあった(注1)。
それに対して、外務省は何ら異論を申したてていない。そしてその後も1905年に至るまで、外務省が竹島と松島の領有権を分けて扱うようなことは決してなかったのである(注2)」
内務省や太政官が古来の松島(竹島=独島)や竹島(鬱陵島)を版図外とした決定に外務省が何ら異論を提起しなかったのは、島名混乱があってもやはり太政官指令は正しかったということを外務省が暗黙のうちに認めたことになります。
(注1)原著注「内務省書記官 西松捨三の外務書記官宛照会」(外務省記録3824 外務省外交資料館所蔵)
(注2)堀和生「1905年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』24号,1887
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
ahirutousagi2さん、RE:2808
>明らかなことは天城の調査によって鬱陵島が松島であると判断されたことです。明治10年(1877)年の太政官判断の時点で混乱は一貫して全く無かったが明治13年(1880)年の天城の調査時点で初めて島名の混乱が生じたとするのは不自然であるといわざるを得ません。
これは私の主張を誤解しているのでしょうか? 私は #2804でこう記しました。
> その(島根県伺書の)わずか3か月前、ロシアのウラジオストック在留の青森県士族・武藤平学は、鬱陵島の材木伐採や鉱山開発などの計画をたて、外務省に「松島開拓之議」を提出しました。外務省における島名混乱の始まりです。
私は上記のように、外務省における島名の混乱を天城による調査時点でなく、その4年前においています。逆に天城の調査で混乱が終息に入ったと考えています。その結末は古来の松島の島名が消え、かわりに鬱陵島を松島と命名する方向でした。
一方、外務省とは別に島根県や内務省の伺書において島名の混乱は微塵もみられませんでした。島根県や内務省、太政官は古来の松島、竹島をその「船路」まで確認したのですから、混乱がおきなかったのは当然と考えています。
>一言で申しますと、このとき内務省・太政官にあったのは竹島・松島一括の原則という判断であり、松島そのものの地理的な把握は必ずしも確立していなかったものと思われるということです。
一般論でいえば、太政官決定は新政府樹立10年の時点であり、当時は西南戦争など政府は混乱し行政機構が盤石でなかったので政府の措置が万全でなかった可能性はあります。しかし、内務省や太政官は「版図の取捨は国家の重大事」という緊迫した認識をもって、ほとんど不備や欠点のみられない資料をもとに古来の松島、竹島の放棄を決めました。
ahirutousagi2さんはそうした決定の過程を知りつつも、明確な根拠なしに内務省や太政官は「松島そのものの地理的な把握は必ずしも確立していなかった」と推測するのはいかがなものでしょうか?
ahirutousagi2さんは、内務省や太政官は「国家の重大事」を決定するにあたり、判断に必要な最小限の「地理的把握」すら行わなかったと指摘するものでしょうか? それは内務省や太政官の行政手腕を貶める意図でしょうか?
ちなみに内務省の慎重さをうかがわせる資料がもうひとつあります。天城による「松島」調査の翌年に内務省は外務省に照会状を送りましたが、それを堀和生氏はこう記しました。
「後81年11月29日、内務省が竹島と松島を版図外とした先述の太政官の指令書きを付して、外務省に鬱陵島の現状を照会したことがあった(注1)。
それに対して、外務省は何ら異論を申したてていない。そしてその後も1905年に至るまで、外務省が竹島と松島の領有権を分けて扱うようなことは決してなかったのである(注2)」
内務省や太政官が古来の松島(竹島=独島)や竹島(鬱陵島)を版図外とした決定に外務省が何ら異論を提起しなかったのは、島名混乱があってもやはり太政官指令は正しかったということを外務省が暗黙のうちに認めたことになります。
(注1)原著注「内務省書記官 西松捨三の外務書記官宛照会」(外務省記録3824 外務省外交資料館所蔵)
(注2)堀和生「1905年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』24号,1887
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 2808 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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