>島名の混乱
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/01/05 00:00 投稿番号: [2808 / 18519]
>内務省や太政官が放棄した松島の地理的位置は、島根県が内務省に提出した伺書および内務省から太政官に提出した伺書から判断することになります。
引用以下の資料は承知しています。私はすでに何度も述べてきたように島根県の判断に古来からの竹島・松島がほぼ正確に反映されていることは全く否定しません。
一方、内務省・太政官の判断も島根県が伺いを立てた竹島・松島に対しての判断であると見ています。しかし、内務省・太政官の松島に対する地理的な理解がどこまで正確であったかは疑問だと申し上げて来ました。
>もちろん当局では可能な資料をすべてあたったことでしょう。それらは付属書類として伺書に添付されました。そのなかにもちろん西洋地図はありません。そもそも自国の領土を関係国以外の国の地図で決定するような国はまず存在しないことでしょう。
附属書類には当然にありません。私が申し上げたのは島根県から提出された書類に西洋の地図があったという話ではなく、内務省・太政官調査局が地図類の混乱の影響を受けていた可能性があるということです。
かといって松島が版図外であったというのが動くものではありません。で、三年後にそれは調査の上で鬱陵島のことを指すと明らかになったわけで、それをさしあたり正式の政府の判断としてよいものとしました。
>島根県が内務省に伺書を提出する3か月前から、竹島(鬱陵島)を目的とする「松島」開拓願いが外務省に出され始め、島名の混乱が少しずつ起きましたが、外務省は内務省や太政官の決定の際してカヤの外で無関係でした。そのためもあってか政府内で外務省を中心とした混乱が内務省、太政官の決定に影響した形跡はまったくみられません。
たしかに内務省にせよ太政官の決定にせよ竹島・松島版図とせずとの原則から判断を提示したのであって、それは古来からの朝鮮との関係から判断すべき内容のものです。
とすれば仰る通り外務省の混乱は内務省などの「決定」に直接には影響したとはいえないかもしれません。地籍を歴史の上から考えるのに、その混乱はあまり関係がありません。
しかし、実質上、松島に対しての内務省・太政官の理解がどこまで一貫し、正確であったでしょうか。もしも一貫した島の認識があったのであれば天城の調査による鬱陵島=松島の混乱もなかったことでしょう。おそらくは竹島考証21号などの外務省の混乱もなかったものと思います。
>ahirutousagi2さんは、可能性が「あった」と思う根拠は何でしょうか?
当時の地図を見ればかなり分かりにくい情況であったことは想像に難くないかと思います。西洋の地図だけでなく、勝海舟の地図(1867)・橋本玉蘭(1870)のものも西洋の混乱を引き継いだものでしょう。
外務省は伝統的な知識を土台としつつも松島を把握しきれず、明確な対象把握はできていませんでした。最新の地図も混乱し外務省も明確でなかった中で、内務省と太政官調査局だけが何ら疑問もなく島根県の伺い書附属資料だけを島の位置の判断材料にしていたとは思えません。
一言で申しますと、このとき内務省・太政官にあったのは竹島・松島一括の原則という判断であり、松島そのものの地理的な把握は必ずしも確立していなかったものと思われるということです。
明らかなことは天城の調査によって鬱陵島が松島であると判断されたことです。明治10年(1877)年の太政官判断の時点で混乱は一貫して全く無かったが明治13年(1880)年の天城の調査時点で初めて島名の混乱が生じたとするのは不自然であるといわざるを得ません。
私の現在の印象では当時の外務省の資料にもうかがえるような松島=鬱陵島という混乱は外務省にとどまらず他においてすでに生じていたと見るのが自然であると考える次第です。
外務省は蚊帳の外でしたが、蚊帳の外だったのはこの一連の伺い資料が地籍調査の性質のものであり、外務省とは必ずしも直結する問題ではなかったからで、例えば松島の地理的な不明瞭さという点においては外務省も内務省もなかったものと思われます。
なお、推測ですが田辺局長の書いたものを見ると内務省との何らかの情報のやりとりなどの片鱗もあるのではないかという気もしています。どうも明治11年(1878)ころの書き方と、明治9年(1876)の下ヶ札などの記述とは違うように思うのですが、いかがですか。
引用以下の資料は承知しています。私はすでに何度も述べてきたように島根県の判断に古来からの竹島・松島がほぼ正確に反映されていることは全く否定しません。
一方、内務省・太政官の判断も島根県が伺いを立てた竹島・松島に対しての判断であると見ています。しかし、内務省・太政官の松島に対する地理的な理解がどこまで正確であったかは疑問だと申し上げて来ました。
>もちろん当局では可能な資料をすべてあたったことでしょう。それらは付属書類として伺書に添付されました。そのなかにもちろん西洋地図はありません。そもそも自国の領土を関係国以外の国の地図で決定するような国はまず存在しないことでしょう。
附属書類には当然にありません。私が申し上げたのは島根県から提出された書類に西洋の地図があったという話ではなく、内務省・太政官調査局が地図類の混乱の影響を受けていた可能性があるということです。
かといって松島が版図外であったというのが動くものではありません。で、三年後にそれは調査の上で鬱陵島のことを指すと明らかになったわけで、それをさしあたり正式の政府の判断としてよいものとしました。
>島根県が内務省に伺書を提出する3か月前から、竹島(鬱陵島)を目的とする「松島」開拓願いが外務省に出され始め、島名の混乱が少しずつ起きましたが、外務省は内務省や太政官の決定の際してカヤの外で無関係でした。そのためもあってか政府内で外務省を中心とした混乱が内務省、太政官の決定に影響した形跡はまったくみられません。
たしかに内務省にせよ太政官の決定にせよ竹島・松島版図とせずとの原則から判断を提示したのであって、それは古来からの朝鮮との関係から判断すべき内容のものです。
とすれば仰る通り外務省の混乱は内務省などの「決定」に直接には影響したとはいえないかもしれません。地籍を歴史の上から考えるのに、その混乱はあまり関係がありません。
しかし、実質上、松島に対しての内務省・太政官の理解がどこまで一貫し、正確であったでしょうか。もしも一貫した島の認識があったのであれば天城の調査による鬱陵島=松島の混乱もなかったことでしょう。おそらくは竹島考証21号などの外務省の混乱もなかったものと思います。
>ahirutousagi2さんは、可能性が「あった」と思う根拠は何でしょうか?
当時の地図を見ればかなり分かりにくい情況であったことは想像に難くないかと思います。西洋の地図だけでなく、勝海舟の地図(1867)・橋本玉蘭(1870)のものも西洋の混乱を引き継いだものでしょう。
外務省は伝統的な知識を土台としつつも松島を把握しきれず、明確な対象把握はできていませんでした。最新の地図も混乱し外務省も明確でなかった中で、内務省と太政官調査局だけが何ら疑問もなく島根県の伺い書附属資料だけを島の位置の判断材料にしていたとは思えません。
一言で申しますと、このとき内務省・太政官にあったのは竹島・松島一括の原則という判断であり、松島そのものの地理的な把握は必ずしも確立していなかったものと思われるということです。
明らかなことは天城の調査によって鬱陵島が松島であると判断されたことです。明治10年(1877)年の太政官判断の時点で混乱は一貫して全く無かったが明治13年(1880)年の天城の調査時点で初めて島名の混乱が生じたとするのは不自然であるといわざるを得ません。
私の現在の印象では当時の外務省の資料にもうかがえるような松島=鬱陵島という混乱は外務省にとどまらず他においてすでに生じていたと見るのが自然であると考える次第です。
外務省は蚊帳の外でしたが、蚊帳の外だったのはこの一連の伺い資料が地籍調査の性質のものであり、外務省とは必ずしも直結する問題ではなかったからで、例えば松島の地理的な不明瞭さという点においては外務省も内務省もなかったものと思われます。
なお、推測ですが田辺局長の書いたものを見ると内務省との何らかの情報のやりとりなどの片鱗もあるのではないかという気もしています。どうも明治11年(1878)ころの書き方と、明治9年(1876)の下ヶ札などの記述とは違うように思うのですが、いかがですか。
これは メッセージ 2806 (hangetsujoh さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/2808.html