太政官指令の外一島=松島は鬱陵島ではない
投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2010/11/09 22:44 投稿番号: [18501 / 18519]
h369jp様が、No.18476で、“明治初期に鬱陵島の呼称が竹島であったり松島であった事実は認められますが・・・だからといって竹島外一島が鬱陵島一島のみのことを表していると考えるのは無理がありますよ。”と、言われたことに同意します。
これに対しpuracyaka2007様は、No.18481で、「明治14年の時点でわずか4年前の明治10年の太政官指令にある松島は鬱陵島だと断じています。」として、杉原隆氏の“「竹島外一島之儀本邦関係無之について」再考”を挙げられました。
上記文書には、“「竹島外一島之儀本邦関係無之」は、竹島(鬱陵島)と松島(現在の竹島)は日本に関係がないとしたものではなくて、竹島とも松島とも呼ばれている島(鬱陵島)が日本に関係がないとする解釈に分があるように思われる。”と書かれています。そして、その詳細は、2010年5月のWeb竹島問題研究所『杉原隆:島根県令境二郎(斎藤栄蔵)について』に述べられています。
杉原隆氏の上記の研究報告には、境二郎についての極めて優れた紹介があります(No.18332)。しかし、“「竹島外一島」は竹島とか松島と呼ばれている島の意味である”と、書いておられるのは疑問です。もし「竹島外一島」が竹島とか松島と呼ばれている島ならば、「竹島一名松島」或いは「竹島即松島」と書くべきです。「竹島外一島」は普通に読めば「竹島と、もう一つの島」と解釈されるでしょう。
1876年10月、地籍編纂のため、竹島について問い合わせを受けた島根県参事境二郎は、『日本海内竹島外一島地籍編纂方伺』を、関連資料とともに内務省に提出しました。資料の一つ『原由之大畧』は、境二郎が主に纏めたと思われますが、竹島渡航者の談と松浦武四郎『竹島雜誌』(1854)等を参考にして、竹島・松島の沿革と地理を詳しく述べました(Nos.18184, 18332)。それには、竹島は「磯竹島一ニ竹島ト稱ス隠岐國ノ乾位一百二拾里許ニ在リ周囲凡十里許山峻嶮ニシテ平地少シ・・」、松島は「次ニ一島アリ松島ト呼フ周囲三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許・・」と記され、竹島は鬱陵島であり、竹島と松島は別々の島であることが明らかです。
杉原氏は“松浦武四郎の「竹島雑誌」が竹島の周回を16里、出雲の島根半島の雲津から隠岐経由竹島までが約120里としていること等から考察すると、竹島から松島まで25里は同じ鬱陵島を竹島(アルゴノート島)と松島(ダジュレー島)とした1840年以降のシーボルトの「日本図」に合致するように思われる。”と書いておられます。しかし、『竹島雜誌』には、竹島と松島を描いた長久保赤水の地図が添付され、「同じ鬱陵島を竹島(アルゴノート島)と松島(ダジュレー島)とした」記述はありません。
内務省と太政官は、『日本海内竹島外一島地籍編纂方伺』を検討し、1877年3月「竹島外一島之儀本邦関係無之儀ト可相心得事」と決定しました。当時、シーボルトの誤りによる、アルゴノート=竹島、ダジュレー=松島=鬱陵島とする欧米製の地図はかなり流布しており、当然、内務省や太政官は知っていたでしょう。しかし、島根県提出資料に、アルゴノート=竹島、ダジュレー=松島=鬱陵島とする記事は無いので、内務省と太政官は、主に島根県提出資料に基づき、鬱陵島である竹島(伝統的竹島)と、「伝統的竹島」の隠岐寄りに在る松島(伝統的松島)を外一島として、日本の版図外にした、と考えます。なお、「竹島松島本邦関係無之」という表現を避けたのは、鬱陵島を松島とする地図も、或る程度は普及していたからでしょう(No.18386)。
1881年島根県令境二郎は、大屋兼助外一名から鬱陵島を松島として、「松島開拓願」が出されたので、内務省へ「該島ノ義ハ過ル明治九年地籍編入ノ義内務省ヘ相伺候処、同十年四月九日付書面竹島外一島ノ義は本邦関係無之義ト可相心得旨御指令相成、然ルニ前述当度大倉組渡航伐木候場合ニ就キ推考候得は、十年四月御指令後或ハ御詮議相変リ本邦版図内ト被定候儀ニ可有之歟」と尋ねました。この記述から、杉原氏は、“境二郎は明治9年「竹島外一島」と記した「外一島」は松島で伐木可能であるから、鬱陵島のことであったことが確認出来る。”とされました。
しかし、伐木可能なのは「伝統的竹島=鬱陵島」と見れば、「外一島」が「松島=鬱陵島」の確認にはなりません(No.17667)。太政官と内務省は、島根県が提出した資料による伝統的竹島・松島の認識に基づき、伝統的竹島=鬱陵島・伝統的松島=現竹島を、「竹島外一島本邦関係無之」と判断した、と私は考えております(No.18474)。
これに対しpuracyaka2007様は、No.18481で、「明治14年の時点でわずか4年前の明治10年の太政官指令にある松島は鬱陵島だと断じています。」として、杉原隆氏の“「竹島外一島之儀本邦関係無之について」再考”を挙げられました。
上記文書には、“「竹島外一島之儀本邦関係無之」は、竹島(鬱陵島)と松島(現在の竹島)は日本に関係がないとしたものではなくて、竹島とも松島とも呼ばれている島(鬱陵島)が日本に関係がないとする解釈に分があるように思われる。”と書かれています。そして、その詳細は、2010年5月のWeb竹島問題研究所『杉原隆:島根県令境二郎(斎藤栄蔵)について』に述べられています。
杉原隆氏の上記の研究報告には、境二郎についての極めて優れた紹介があります(No.18332)。しかし、“「竹島外一島」は竹島とか松島と呼ばれている島の意味である”と、書いておられるのは疑問です。もし「竹島外一島」が竹島とか松島と呼ばれている島ならば、「竹島一名松島」或いは「竹島即松島」と書くべきです。「竹島外一島」は普通に読めば「竹島と、もう一つの島」と解釈されるでしょう。
1876年10月、地籍編纂のため、竹島について問い合わせを受けた島根県参事境二郎は、『日本海内竹島外一島地籍編纂方伺』を、関連資料とともに内務省に提出しました。資料の一つ『原由之大畧』は、境二郎が主に纏めたと思われますが、竹島渡航者の談と松浦武四郎『竹島雜誌』(1854)等を参考にして、竹島・松島の沿革と地理を詳しく述べました(Nos.18184, 18332)。それには、竹島は「磯竹島一ニ竹島ト稱ス隠岐國ノ乾位一百二拾里許ニ在リ周囲凡十里許山峻嶮ニシテ平地少シ・・」、松島は「次ニ一島アリ松島ト呼フ周囲三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許・・」と記され、竹島は鬱陵島であり、竹島と松島は別々の島であることが明らかです。
杉原氏は“松浦武四郎の「竹島雑誌」が竹島の周回を16里、出雲の島根半島の雲津から隠岐経由竹島までが約120里としていること等から考察すると、竹島から松島まで25里は同じ鬱陵島を竹島(アルゴノート島)と松島(ダジュレー島)とした1840年以降のシーボルトの「日本図」に合致するように思われる。”と書いておられます。しかし、『竹島雜誌』には、竹島と松島を描いた長久保赤水の地図が添付され、「同じ鬱陵島を竹島(アルゴノート島)と松島(ダジュレー島)とした」記述はありません。
内務省と太政官は、『日本海内竹島外一島地籍編纂方伺』を検討し、1877年3月「竹島外一島之儀本邦関係無之儀ト可相心得事」と決定しました。当時、シーボルトの誤りによる、アルゴノート=竹島、ダジュレー=松島=鬱陵島とする欧米製の地図はかなり流布しており、当然、内務省や太政官は知っていたでしょう。しかし、島根県提出資料に、アルゴノート=竹島、ダジュレー=松島=鬱陵島とする記事は無いので、内務省と太政官は、主に島根県提出資料に基づき、鬱陵島である竹島(伝統的竹島)と、「伝統的竹島」の隠岐寄りに在る松島(伝統的松島)を外一島として、日本の版図外にした、と考えます。なお、「竹島松島本邦関係無之」という表現を避けたのは、鬱陵島を松島とする地図も、或る程度は普及していたからでしょう(No.18386)。
1881年島根県令境二郎は、大屋兼助外一名から鬱陵島を松島として、「松島開拓願」が出されたので、内務省へ「該島ノ義ハ過ル明治九年地籍編入ノ義内務省ヘ相伺候処、同十年四月九日付書面竹島外一島ノ義は本邦関係無之義ト可相心得旨御指令相成、然ルニ前述当度大倉組渡航伐木候場合ニ就キ推考候得は、十年四月御指令後或ハ御詮議相変リ本邦版図内ト被定候儀ニ可有之歟」と尋ねました。この記述から、杉原氏は、“境二郎は明治9年「竹島外一島」と記した「外一島」は松島で伐木可能であるから、鬱陵島のことであったことが確認出来る。”とされました。
しかし、伐木可能なのは「伝統的竹島=鬱陵島」と見れば、「外一島」が「松島=鬱陵島」の確認にはなりません(No.17667)。太政官と内務省は、島根県が提出した資料による伝統的竹島・松島の認識に基づき、伝統的竹島=鬱陵島・伝統的松島=現竹島を、「竹島外一島本邦関係無之」と判断した、と私は考えております(No.18474)。
これは メッセージ 18481 (puracyaka2007 さん)への返信です.
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