竹島=独島編入にたいする反発3
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/05/11 22:23 投稿番号: [1660 / 18519]
こうした周到な準備のすえ、11月、日本は韓国に乙巳(いつし)保護条約、すなわち第二次日韓協約を強要しました。この条約は韓国にとって日韓併合条約に劣らず亡国的なものでした。
この暴挙にたいする韓国民の悲しみがいかに深かったか、当時の「皇城新聞」は「この日たるや放声大哭す」と題し、怒りをこめてこう嘆きました。
「ああ痛ましいかな! ああ憤ろしいかな! わが二千万同胞。生か死か。檀君・箕子いらい四千年の国民精神は、一夜の間に滅亡してしまった! 痛ましいかな! 痛ましいかな! 同胞よ! 同胞よ!」
このように痛哭の哀悼文を書いた皇城新聞は、日本によりたちまち発禁処分になってしました。
この嘆きにたがわず、韓国は保護条約により確実に亡国の道を余儀なくされました。条約により日本の保護国にされた大韓帝国は、外交権を完全に剥奪され、日本の統監府による支配下に置かれ、事実上日本の属国にされました。
外交権とは、国家が国際法上の権利能力や法的人格を有することを示す最大の主権であるので、外交権を失えばもはや国家は国際法上の主体ではなくなります。その結果、近代的保護関係のもとでの隷属国家は独立国とはいえなくなります。
このように重大な意味を持つ保護条約が、どのような状況で結ばれたのか、明治大学・海野福寿教授は当日の状況を次のように記述しました。
-------------------------- -
銃剣で威嚇しつつ調印
(1905年)11月17-18日、歩兵一大隊・砲兵中隊・騎兵連隊が王宮前や目抜き通りの鐘路で演習と称する示威をおこない、日本兵が物情騒然とした市中を巡回し市民をおびやかした。
17日午前11時、林公使は大臣たちをチンコゲ(南山北麓)の日本公使館に招き、予備交渉をおこなったのち、「君臣間最後の議を決する」ため御前会議の開催を要求した。午後3時頃、大臣の途中逃亡を防止するため、護衛の名目で憲兵付きで諸大臣と林が参内した。
御前会議は夜におよんだが、条約反対の意見がつよく、結論をうるにいたらなかったので、日本側との交渉を延期することにした。「事の遷延を不得策」とみた伊藤は、あらかじめ打ち合わせしていた林から連絡をうけ、8時ころ、長谷川駐箚軍司令官、佐藤憲兵隊長をともなって参内し、御前会議の再開を求めた。
しかし、皇帝が病気を理由に出席を拒否したので、閣議形式の会議がひらかれた。外国の使臣である伊藤・林が武官とともにこれに出席すること自体、不法きわまりないが、会議は折衝の場と化した。
慶雲宮内も日本兵が満ちていた。『大韓季年史』は「銃刀森列すること鉄桶の如く、内政府及び宮中、日兵また排立し、其の恐喝の気勢、以てことばにあらわし難し」と述べている。窓に映る銃剣の影が大臣たちを戦慄させたことだろう。
伊藤は大臣一人ひとりに賛否を尋問した。韓圭ソル・参政と閔泳綺・度支相(蔵相)は明確に反対を表明した。朴斉純外相も「断然不同意」と拒否したが、ことばじりをとらえた伊藤は、たくみに誘導し「反対と見なすを得ず」と一方的に判定した。その他の肩を落とした四人の大臣のあいまいな発言も、伊藤によりすべて賛成とみなされた。
こうして、国民から「乙巳(ウルサ)五賊」と非難された五人の大臣の賛成をもって、会議の多数決とした伊藤は、気落ちした韓圭ソル参政に皇帝の裁可を求めるよううながし、拒否するならば「余は我天皇陛下の使命を奉じて此任にあたる。諸君に愚弄せられて黙するものにあらず」と恫喝した。
しかし、あくまで反対の韓圭ソル参政は、涕泣しながら辞意をもらして退室した。伊藤は「余り駄々を捏ねる様だったら殺(や)ってしまえ、と大きな声で囁いた」(西四辻公堯『韓国外交秘話』)という。大臣たちに聞こえる程度の声でいった、という意味だろうか。
協約案は若干の文言修正ののち、午後11時半、林公使と朴斉純外相が記名し、外部(外務省)から日本公使館員が奪うようにして持ってきた外相職印を捺印した。18日午前1時半ころである(注4)。
----------------------------
(つづく)
この暴挙にたいする韓国民の悲しみがいかに深かったか、当時の「皇城新聞」は「この日たるや放声大哭す」と題し、怒りをこめてこう嘆きました。
「ああ痛ましいかな! ああ憤ろしいかな! わが二千万同胞。生か死か。檀君・箕子いらい四千年の国民精神は、一夜の間に滅亡してしまった! 痛ましいかな! 痛ましいかな! 同胞よ! 同胞よ!」
このように痛哭の哀悼文を書いた皇城新聞は、日本によりたちまち発禁処分になってしました。
この嘆きにたがわず、韓国は保護条約により確実に亡国の道を余儀なくされました。条約により日本の保護国にされた大韓帝国は、外交権を完全に剥奪され、日本の統監府による支配下に置かれ、事実上日本の属国にされました。
外交権とは、国家が国際法上の権利能力や法的人格を有することを示す最大の主権であるので、外交権を失えばもはや国家は国際法上の主体ではなくなります。その結果、近代的保護関係のもとでの隷属国家は独立国とはいえなくなります。
このように重大な意味を持つ保護条約が、どのような状況で結ばれたのか、明治大学・海野福寿教授は当日の状況を次のように記述しました。
-------------------------- -
銃剣で威嚇しつつ調印
(1905年)11月17-18日、歩兵一大隊・砲兵中隊・騎兵連隊が王宮前や目抜き通りの鐘路で演習と称する示威をおこない、日本兵が物情騒然とした市中を巡回し市民をおびやかした。
17日午前11時、林公使は大臣たちをチンコゲ(南山北麓)の日本公使館に招き、予備交渉をおこなったのち、「君臣間最後の議を決する」ため御前会議の開催を要求した。午後3時頃、大臣の途中逃亡を防止するため、護衛の名目で憲兵付きで諸大臣と林が参内した。
御前会議は夜におよんだが、条約反対の意見がつよく、結論をうるにいたらなかったので、日本側との交渉を延期することにした。「事の遷延を不得策」とみた伊藤は、あらかじめ打ち合わせしていた林から連絡をうけ、8時ころ、長谷川駐箚軍司令官、佐藤憲兵隊長をともなって参内し、御前会議の再開を求めた。
しかし、皇帝が病気を理由に出席を拒否したので、閣議形式の会議がひらかれた。外国の使臣である伊藤・林が武官とともにこれに出席すること自体、不法きわまりないが、会議は折衝の場と化した。
慶雲宮内も日本兵が満ちていた。『大韓季年史』は「銃刀森列すること鉄桶の如く、内政府及び宮中、日兵また排立し、其の恐喝の気勢、以てことばにあらわし難し」と述べている。窓に映る銃剣の影が大臣たちを戦慄させたことだろう。
伊藤は大臣一人ひとりに賛否を尋問した。韓圭ソル・参政と閔泳綺・度支相(蔵相)は明確に反対を表明した。朴斉純外相も「断然不同意」と拒否したが、ことばじりをとらえた伊藤は、たくみに誘導し「反対と見なすを得ず」と一方的に判定した。その他の肩を落とした四人の大臣のあいまいな発言も、伊藤によりすべて賛成とみなされた。
こうして、国民から「乙巳(ウルサ)五賊」と非難された五人の大臣の賛成をもって、会議の多数決とした伊藤は、気落ちした韓圭ソル参政に皇帝の裁可を求めるよううながし、拒否するならば「余は我天皇陛下の使命を奉じて此任にあたる。諸君に愚弄せられて黙するものにあらず」と恫喝した。
しかし、あくまで反対の韓圭ソル参政は、涕泣しながら辞意をもらして退室した。伊藤は「余り駄々を捏ねる様だったら殺(や)ってしまえ、と大きな声で囁いた」(西四辻公堯『韓国外交秘話』)という。大臣たちに聞こえる程度の声でいった、という意味だろうか。
協約案は若干の文言修正ののち、午後11時半、林公使と朴斉純外相が記名し、外部(外務省)から日本公使館員が奪うようにして持ってきた外相職印を捺印した。18日午前1時半ころである(注4)。
----------------------------
(つづく)
これは メッセージ 1659 (hangetsujoh さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1660.html