竹島=独島編入にたいする反発2
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/05/11 22:22 投稿番号: [1659 / 18519]
韓国で参政大臣は首相に該当しますが、その指令第3号を直訳するとこうなります。
「来報は閲悉、獨島領地の説は全屬無根であるが、該島の形便と日本人の行動如何をさらに調査報告すること」
この文にある「形便」は、うえの内藤氏のように「状況」とか、あるいは「成りゆき」「事の次第」などを意味します。ところが拓殖大学の下條正男氏は、これをなんと「形状」と誤訳し、そこから珍説をこう展開しました(注3)。
<「本郡所属の獨島」と記された報告を受けた中央政府が、新たな属島の出現に困惑し、改めて島の形状を報告するよう江原道府に命じた・・・つまりこの時、中央政府では「勅令41号」の石島と「本郡所属の獨島(竹島)」とを、全く別の島として認識していたのである>
中央政府は日本の措置に困惑したのであり、べつに「新たな属島の出現」に困惑したわけではないし、また「改めて島の形状を報告するよう」求めたのでもありません。
下條氏は勅令41号に書かれた「石島」を竹島=独島でなく、どうしても観音島にしたてて、韓国は竹島=独島に領有意識をもっていなかったと主張したいがための曲解のようです。こっけいです。同氏は日韓文化協会の常務理事も務めましたが、その立場からしても重大な誤りと指摘せざるをえません。
さいわい、ここの会議室では同氏の主張を鵜呑みにしている人がみられないようなので救いです。
話はもどりますが、沈報告は韓国で大きな反響を巻き起こしました。代表的な新聞の皇城新聞は大きな見出しで「本郡所属の獨島」に関する沈報告をそのまま報道しました。また大韓毎日申報は沈報告を要約したうえで「独島が日本領になったということは全く理屈に合わない」と論評しました。こうして官民あげて日本の竹島=独島編入を非難しました。
しかし、韓国はこれを外交問題にすることはできませんでした。これをとらえて、韓国が抗議すらしなかったのは竹島=独島領有の意思がなかったからだと短絡的に主張する人が時おりみられるようです。そこでこの背景についてふれたいと思います。
結論からいうと、当時の韓国は外交的に日本へ抗議できる立場ではありませんでした。そうした事情を明らかにするために、当時の情勢をまずみることにします。
1904年5月、日本は韓国を半植民地化する対韓施設綱領を閣議決定しましたが、9月にはその実行にとりかかり、第1次日韓協約を強要しました。その一方で、日本は韓国を日本の保護国とするため列強に承認を働きかけました。
というのも、当時の韓国の首都にはアメリカやイギリスなど列強の公使館がおかれていたので、たとえ日本が韓国の保護国化を宣言しても、それらの公使館が韓国と外交関係をつづけるかぎり、保護国宣言は実質的に失敗しかねません。
そのために、保護国化のために列強の承認は不可欠でした。7月、日本はまずアメリカとの間に韓国とフィリッピンをテンビンにかけた取引「桂・タフト密約」を結びました。
ついで8月、日本は第2次日英同盟を結び、イギリスの了解をとりつけました。これは前年の日韓議定書の内容に違反するものであったので韓国から抗議を受けましたが、日本はイギリスのアドバイスにしたがい、韓国の抗議をイグノヲア、つまり無視することを決めこみました。「万国公法は小国を奪う一道具」と心得ている帝国主義国家では、日韓議定書は押しつけるものであり、順守すべきものとは認識していないようです。
さらに日本は9月、ロシアとの間に日露戦争の終戦処理であるポーツマス条約を調印し、韓国保護国化を承認させました。
(つづく)
「来報は閲悉、獨島領地の説は全屬無根であるが、該島の形便と日本人の行動如何をさらに調査報告すること」
この文にある「形便」は、うえの内藤氏のように「状況」とか、あるいは「成りゆき」「事の次第」などを意味します。ところが拓殖大学の下條正男氏は、これをなんと「形状」と誤訳し、そこから珍説をこう展開しました(注3)。
<「本郡所属の獨島」と記された報告を受けた中央政府が、新たな属島の出現に困惑し、改めて島の形状を報告するよう江原道府に命じた・・・つまりこの時、中央政府では「勅令41号」の石島と「本郡所属の獨島(竹島)」とを、全く別の島として認識していたのである>
中央政府は日本の措置に困惑したのであり、べつに「新たな属島の出現」に困惑したわけではないし、また「改めて島の形状を報告するよう」求めたのでもありません。
下條氏は勅令41号に書かれた「石島」を竹島=独島でなく、どうしても観音島にしたてて、韓国は竹島=独島に領有意識をもっていなかったと主張したいがための曲解のようです。こっけいです。同氏は日韓文化協会の常務理事も務めましたが、その立場からしても重大な誤りと指摘せざるをえません。
さいわい、ここの会議室では同氏の主張を鵜呑みにしている人がみられないようなので救いです。
話はもどりますが、沈報告は韓国で大きな反響を巻き起こしました。代表的な新聞の皇城新聞は大きな見出しで「本郡所属の獨島」に関する沈報告をそのまま報道しました。また大韓毎日申報は沈報告を要約したうえで「独島が日本領になったということは全く理屈に合わない」と論評しました。こうして官民あげて日本の竹島=独島編入を非難しました。
しかし、韓国はこれを外交問題にすることはできませんでした。これをとらえて、韓国が抗議すらしなかったのは竹島=独島領有の意思がなかったからだと短絡的に主張する人が時おりみられるようです。そこでこの背景についてふれたいと思います。
結論からいうと、当時の韓国は外交的に日本へ抗議できる立場ではありませんでした。そうした事情を明らかにするために、当時の情勢をまずみることにします。
1904年5月、日本は韓国を半植民地化する対韓施設綱領を閣議決定しましたが、9月にはその実行にとりかかり、第1次日韓協約を強要しました。その一方で、日本は韓国を日本の保護国とするため列強に承認を働きかけました。
というのも、当時の韓国の首都にはアメリカやイギリスなど列強の公使館がおかれていたので、たとえ日本が韓国の保護国化を宣言しても、それらの公使館が韓国と外交関係をつづけるかぎり、保護国宣言は実質的に失敗しかねません。
そのために、保護国化のために列強の承認は不可欠でした。7月、日本はまずアメリカとの間に韓国とフィリッピンをテンビンにかけた取引「桂・タフト密約」を結びました。
ついで8月、日本は第2次日英同盟を結び、イギリスの了解をとりつけました。これは前年の日韓議定書の内容に違反するものであったので韓国から抗議を受けましたが、日本はイギリスのアドバイスにしたがい、韓国の抗議をイグノヲア、つまり無視することを決めこみました。「万国公法は小国を奪う一道具」と心得ている帝国主義国家では、日韓議定書は押しつけるものであり、順守すべきものとは認識していないようです。
さらに日本は9月、ロシアとの間に日露戦争の終戦処理であるポーツマス条約を調印し、韓国保護国化を承認させました。
(つづく)
これは メッセージ 1658 (hangetsujoh さん)への返信です.
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