Re: 田邉太一の「于山」認識
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2006/09/30 20:51 投稿番号: [14935 / 18519]
>明治9(1876)年から明治11(1878)年にかけて相次いで出された「松島開拓」の申請に対し、外務省内には「松島」が何処を指すかについて「混乱」があったとされています。しかし、「北澤正誠『竹島考證』1881, 復刻エムティ出版, 1996」をみる限り、当時の交信局長田邉太一には少しも「混乱」は無かったことを示します。
同意します。
田邉太一は幕臣の時代にヨーロッパへ使節団の一員として派遣されますが、幕府が内戦に敗れると、旧将軍家が持てる人的資源を結集して創設した沼津兵学校の一等教授として招聘されます。
この沼津兵学校は、特に土木技術や測量技術に優れた多くの人材を輩出しており、彼らはその後内務省地理寮や参謀本部で測量や地図の作製に携っていますね。太一自身は明治政府からの出仕の要請を何度も固辞しましたが、幕僚時代に培った外交官としての貴重な経験と見識を高く評価されており、出仕後は岩倉使節団の欧米視察にも同行するなど活躍しました。
さて、田邉太一にとってみれば、幕府時代から松島竹島ともに朝鮮領であることを疑問に思わないとしても、全く不思議はありません。
渡邉洪基も有能な人材であったろうとは思いますが、豊富な経験と知識を持つ田邉と比較するのは可哀相ですね。
これは メッセージ 14932 (ararenotomo さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/14935.html