Re: よく分かる『隠州視聴合記』
投稿者: te2222000 投稿日時: 2006/06/15 06:29 投稿番号: [14634 / 18519]
shuku_remusさん
続いて動機面の議論についてお答えします。
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隠州視聴合紀の中で、この箇所にどの程度思い入れがあったかどうか、江戸初期の
この地域をめぐる両国漁民同士の緊張関係が分かりませんので、何とも言えません。
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緊張関係は全く無かったと思います。
元禄の竹島一件以前に両国漁民が衝突したという記述を見たことがありません。朝鮮人の往来の有無は島の帰属を論ずる上で重要ですから、記録があるならば必ずどこかで取り上げられて、不勉強な私の目にも入ると思います。
実際、池内敏「竹島一件の再検討 - 元禄六〜九年の日朝交渉 - 」(2001)には、「日朝漁民の競合事件が発生したのは元禄五(1692)年三月末が初めてのことであ」ると書かれています。
また、朝鮮の空島政策のことを考えれば、そのような長期間、竹島における両国民の接触がなかったとしても別に不自然ではありません。
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#14566 田中邦貴さんのHPによりますと、斉藤豊仙は隠岐郡代を務めたとのことです
から、地元漁民が安心して漁を営むことには大いに関心があったと思われます。しかし
当時は幕府の関心は薄く、国境の画定は地元の願望にとどまったのではないでしょうか。
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竹島渡海の開始を1625年としても、隠州視聴合紀の書かれた1667年には既に40年が経過しており、その間、朝鮮人によって事業が妨害された事は一度もありませんでした。又、時には船が漂流して朝鮮に流れ着き、竹島渡海が朝鮮の知るところとなっていますが、それについて抗議を受けたことも一切ありませんでした。これは、対馬藩が朝鮮に対して竹島渡海は公儀御法度だと回答したことも影響しているかもしれませんが、鳥取や隠岐の渡海関係者はそんなことを知るよしも無いのですから、朝鮮が竹島渡海を容認しているとしか思えなかったでしょう。
ですから、竹島渡海の関係者が「安心して漁を営みたい」と考える時、その具体的な関心は、航海の安全、収穫高の安定、日本人密漁者の対策などにあった筈で、朝鮮人の排除などは初めから考えもしなかったと思います。
また、竹島渡海を主催したのは米子町人であり、事業の利益は彼らと鳥取藩が独占し、隠岐の住民は雇われて竹島に渡っただけでした。その点からも国境の画定が地元の願望だったという推測には疑問を感じます。
さて、shuku_remusさんは、考察の中で以下の選択肢も挙げていらっしゃいました。
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(1) 緊張関係はなく、この二島を含むこの地域を日本の国境とすることは当然であった。
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これは言外に「もしも(竹島地域をめぐる日朝漁民の)緊張関係が無かったのであれば、当然竹島と松島は日本領と認識された筈だ」という主張を含んでいるように思いました。
それに対する私の考えは次の通りです。
「もしも緊張関係が無かったのであれば、当然竹島と松島は日本人が独占的に経済活動を行なう土地と認識された筈だ。しかし、それは必ずしも領土を意味しない。例えば、現在の遠洋漁業は日本の領域でもなく外国の領域でもない場所で経済活動を行なう。それと同じように、竹島と松島が日本の領域でもなく朝鮮の領域でもない場所と考えられたとしても特に不合理な点は無い」
続いて動機面の議論についてお答えします。
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隠州視聴合紀の中で、この箇所にどの程度思い入れがあったかどうか、江戸初期の
この地域をめぐる両国漁民同士の緊張関係が分かりませんので、何とも言えません。
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緊張関係は全く無かったと思います。
元禄の竹島一件以前に両国漁民が衝突したという記述を見たことがありません。朝鮮人の往来の有無は島の帰属を論ずる上で重要ですから、記録があるならば必ずどこかで取り上げられて、不勉強な私の目にも入ると思います。
実際、池内敏「竹島一件の再検討 - 元禄六〜九年の日朝交渉 - 」(2001)には、「日朝漁民の競合事件が発生したのは元禄五(1692)年三月末が初めてのことであ」ると書かれています。
また、朝鮮の空島政策のことを考えれば、そのような長期間、竹島における両国民の接触がなかったとしても別に不自然ではありません。
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#14566 田中邦貴さんのHPによりますと、斉藤豊仙は隠岐郡代を務めたとのことです
から、地元漁民が安心して漁を営むことには大いに関心があったと思われます。しかし
当時は幕府の関心は薄く、国境の画定は地元の願望にとどまったのではないでしょうか。
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竹島渡海の開始を1625年としても、隠州視聴合紀の書かれた1667年には既に40年が経過しており、その間、朝鮮人によって事業が妨害された事は一度もありませんでした。又、時には船が漂流して朝鮮に流れ着き、竹島渡海が朝鮮の知るところとなっていますが、それについて抗議を受けたことも一切ありませんでした。これは、対馬藩が朝鮮に対して竹島渡海は公儀御法度だと回答したことも影響しているかもしれませんが、鳥取や隠岐の渡海関係者はそんなことを知るよしも無いのですから、朝鮮が竹島渡海を容認しているとしか思えなかったでしょう。
ですから、竹島渡海の関係者が「安心して漁を営みたい」と考える時、その具体的な関心は、航海の安全、収穫高の安定、日本人密漁者の対策などにあった筈で、朝鮮人の排除などは初めから考えもしなかったと思います。
また、竹島渡海を主催したのは米子町人であり、事業の利益は彼らと鳥取藩が独占し、隠岐の住民は雇われて竹島に渡っただけでした。その点からも国境の画定が地元の願望だったという推測には疑問を感じます。
さて、shuku_remusさんは、考察の中で以下の選択肢も挙げていらっしゃいました。
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(1) 緊張関係はなく、この二島を含むこの地域を日本の国境とすることは当然であった。
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これは言外に「もしも(竹島地域をめぐる日朝漁民の)緊張関係が無かったのであれば、当然竹島と松島は日本領と認識された筈だ」という主張を含んでいるように思いました。
それに対する私の考えは次の通りです。
「もしも緊張関係が無かったのであれば、当然竹島と松島は日本人が独占的に経済活動を行なう土地と認識された筈だ。しかし、それは必ずしも領土を意味しない。例えば、現在の遠洋漁業は日本の領域でもなく外国の領域でもない場所で経済活動を行なう。それと同じように、竹島と松島が日本の領域でもなく朝鮮の領域でもない場所と考えられたとしても特に不合理な点は無い」
これは メッセージ 14624 (te2222000 さん)への返信です.
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