竹島=独島と安龍福3
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/02 22:54 投稿番号: [1337 / 18519]
安の手柄話は虚実こもごもですが、日本ではささいなことで虚の部分のみ強調して指摘する傾向にあり、冷静な研究はすくないのが実情です。たとえば、下條氏は安の「于山島像」に関する矛盾点をいろいろ指摘していますが、正史で愚民とされている安の「個人的」な于山島像が政府の于山島像に置き換わるはずもなく、竹島=独島の領有問題にはほとんど無用な詮索です。
そんな中で郷土史を重視した内藤氏は客観的観点で核心にせまる研究をしているようです。核心というのは、安龍福の訴状および安がもらったとする「関白の書契」についてです。内藤氏は、関白の書契はありえないとする一方、安の訴状についてはこう述べました。
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問題はそれ(安の処遇)だけではない。帰国した安龍福(安同知)が備辺司で供述していることで、伯耆州と対座して、鬱陵・于山両島が朝鮮領であるとする書契を受けとったかどうかの問題である。
このことについては、まず鳥取藩主が(江戸から)帰国したのは7月19日であり、6月23日付の幕府の指示(安の処遇)を受けている以上、異客の訴願を鳥取で受理することなどありえないのである。そして藩主が帰国した時には、異客一行は湖山池の青島に監視つきでとじ込められていたのである。
しかし湖山池に移されるまでは、彼らは町会所にあって外交使節としての待遇を受けていた。したがって、その間に安龍福が、関白すなわち徳川将軍に宛てた訴状を、鳥取藩の役人に渡していたのではなかろうかという疑問である。
それというのも、1697年(元禄10)2月に、対馬藩主が朝鮮の東莱府使に行った質問のなかで、「去秋、貴国人呈単ノ事アリ、朝令ニ出ヅルカト」と述べていることが問題になる。これに対して東莱府使は、「漂風ノ愚民」ニ至リテハ、設ヒ作為スル所アルモ、朝家ノ知ル所に非ズシテ」と答え、さらに翌年3月の文書には、「呈書の事に至りては、誠に其の妄作の罪あり」と記している。
対馬藩主は「貴国人呈単ノ事」といって、日本と朝鮮との外交の場で問題にした。これに対して朝鮮側も「呈単ノ事」と答えて、「漂風ノ愚民」にすぎない安龍福が勝手にしたことであり、朝鮮政府として関知するところでなく、「妄作ノ罪」があると述べている。
安龍福が日本で文書を提出したことは、日朝が共通して認めている事実ということになる。日本で提出したといえば、安龍福の足跡から鳥取藩以外には考えられないのである(注)。
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安の訴状が鳥取藩に提出され、それを対馬藩が知っていたことからすると、かれの訴状は徳川幕府にあるいは届いたのかもしれません。しかし、そのころには徳川幕府は竹島(鬱陵島)放棄をすでに決定していたので、かれの抗議行動は幕府の政策になんらの影響も与えませんでした。
その一方で「松島はすなわち芋山(于山)島・・・我が境域」という訴えは後世に重要な影響を残しました。なお、安がそのような認識をもつに至った背景ですが、「輿地志」の「鬱陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいうところの松島である」という見方が当時は東莱の漁民にまでひろまっていたことを示しているといえます。
(注)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000,P106
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
そんな中で郷土史を重視した内藤氏は客観的観点で核心にせまる研究をしているようです。核心というのは、安龍福の訴状および安がもらったとする「関白の書契」についてです。内藤氏は、関白の書契はありえないとする一方、安の訴状についてはこう述べました。
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問題はそれ(安の処遇)だけではない。帰国した安龍福(安同知)が備辺司で供述していることで、伯耆州と対座して、鬱陵・于山両島が朝鮮領であるとする書契を受けとったかどうかの問題である。
このことについては、まず鳥取藩主が(江戸から)帰国したのは7月19日であり、6月23日付の幕府の指示(安の処遇)を受けている以上、異客の訴願を鳥取で受理することなどありえないのである。そして藩主が帰国した時には、異客一行は湖山池の青島に監視つきでとじ込められていたのである。
しかし湖山池に移されるまでは、彼らは町会所にあって外交使節としての待遇を受けていた。したがって、その間に安龍福が、関白すなわち徳川将軍に宛てた訴状を、鳥取藩の役人に渡していたのではなかろうかという疑問である。
それというのも、1697年(元禄10)2月に、対馬藩主が朝鮮の東莱府使に行った質問のなかで、「去秋、貴国人呈単ノ事アリ、朝令ニ出ヅルカト」と述べていることが問題になる。これに対して東莱府使は、「漂風ノ愚民」ニ至リテハ、設ヒ作為スル所アルモ、朝家ノ知ル所に非ズシテ」と答え、さらに翌年3月の文書には、「呈書の事に至りては、誠に其の妄作の罪あり」と記している。
対馬藩主は「貴国人呈単ノ事」といって、日本と朝鮮との外交の場で問題にした。これに対して朝鮮側も「呈単ノ事」と答えて、「漂風ノ愚民」にすぎない安龍福が勝手にしたことであり、朝鮮政府として関知するところでなく、「妄作ノ罪」があると述べている。
安龍福が日本で文書を提出したことは、日朝が共通して認めている事実ということになる。日本で提出したといえば、安龍福の足跡から鳥取藩以外には考えられないのである(注)。
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安の訴状が鳥取藩に提出され、それを対馬藩が知っていたことからすると、かれの訴状は徳川幕府にあるいは届いたのかもしれません。しかし、そのころには徳川幕府は竹島(鬱陵島)放棄をすでに決定していたので、かれの抗議行動は幕府の政策になんらの影響も与えませんでした。
その一方で「松島はすなわち芋山(于山)島・・・我が境域」という訴えは後世に重要な影響を残しました。なお、安がそのような認識をもつに至った背景ですが、「輿地志」の「鬱陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいうところの松島である」という見方が当時は東莱の漁民にまでひろまっていたことを示しているといえます。
(注)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000,P106
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 1336 (hangetsujoh さん)への返信です.
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