「竹島一件」と竹島=独島再確認2
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/23 14:03 投稿番号: [1292 / 18519]
一方の朝鮮政府は150名からなる大調査団を鬱陵島へ派遣しましたが、そのいきさつを宋炳基氏はこう記しました。
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日本との鬱陵島紛糾は、政府担当者だけでなく一般人にも関心を呼び起こしたようである。たとえば、1694年(粛宗20)7月の前武兼宣伝官の成楚[王行]の上疏がそうしたものであった。
彼は、鬱陵島が国家の要衝で土地が広く肥沃であるにもかかわらず久しく見捨てられてきており、最近日本が思い切って「求居之計」を出しているので、ここに僉・制両鎮を特設して日本人をして見下すことができないようにすべきであると主張した。
必然的に、政府でも問題になっていた鬱陵島備禦策について関心を持ち始めていた。領議政の南九万が、三陟僉使(せんし)を鬱陵島に派遣、生活状態を調査して民戸を移住させ、鎮を設置することで日本に対備すべきとする建議をしたのがそれである。
南九万の建議により張漢相が三陟僉使に抜擢された。張漢相はこの年(1694、粛宗20)9月19日、三陟を出発した。一行は別遣訳官(倭語訳官)の安慎徽を含み総勢150名で、騎船二隻、汲水船四隻が動員された。
張漢相一行は9月20日から10月3日までの13日のあいだで滞留して、鬱陵島から10月6日三陟へ戻った。張漢相の鬱陵島審察については『粛宗実録』にも記録されているが、「鬱陵島事蹟」により詳しく記されている。
張漢相は鬱陵島審察結果を、山川・道里を記して挿入した地図とともに政府に報告した。その要旨は、倭人が往来した痕跡はあるが住んではいないこと、海路が穏やかではなく日本が横占しても除防が難しいこと、土質から〓麦を植えてきたこと等であった(注2)。
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調査団長である張漢相が任命された僉使ですが、これは各鎮台に属した従三品の武官職をさします。張僉使が日本語の通訳まで連れていったのは、日本人と遭遇した場合にそなえたためだったことはいうまでもありません。本腰を入れた対応でした。
そうした周到な準備のため、一行は150人もの大人数になったのですが、それだけに調査には熱が入りました。一行は鬱陵島の地図まで作成するなど綿密な調査をしたようですが、このとき冒頭に述べたようなエピソードがありました。すなわち、調査の過程で一行は竹島=独島を目視することができたようでした。張漢相はそれを報告書(?)「鬱陵島事蹟」に次のように記しました。
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東側五里ほどに一つの小さな島があるが、高大ではなく海長竹が一面に叢生している。雨があがり、霧(?、ママ)が晴れた日、山に入って中峰に登ると南北の両峰が見上げるばかりに高く向かい合っているがこれを三峰という。
西側を眺めると大関嶺のくねくねとした姿が見え、東側を眺めると海の中に一つの島がみえるが、はるかに辰方向に位置して、その大きさは蔚島の三分の一未満で(距離は)三百余里に過ぎない(注3)。
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(つづく)
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日本との鬱陵島紛糾は、政府担当者だけでなく一般人にも関心を呼び起こしたようである。たとえば、1694年(粛宗20)7月の前武兼宣伝官の成楚[王行]の上疏がそうしたものであった。
彼は、鬱陵島が国家の要衝で土地が広く肥沃であるにもかかわらず久しく見捨てられてきており、最近日本が思い切って「求居之計」を出しているので、ここに僉・制両鎮を特設して日本人をして見下すことができないようにすべきであると主張した。
必然的に、政府でも問題になっていた鬱陵島備禦策について関心を持ち始めていた。領議政の南九万が、三陟僉使(せんし)を鬱陵島に派遣、生活状態を調査して民戸を移住させ、鎮を設置することで日本に対備すべきとする建議をしたのがそれである。
南九万の建議により張漢相が三陟僉使に抜擢された。張漢相はこの年(1694、粛宗20)9月19日、三陟を出発した。一行は別遣訳官(倭語訳官)の安慎徽を含み総勢150名で、騎船二隻、汲水船四隻が動員された。
張漢相一行は9月20日から10月3日までの13日のあいだで滞留して、鬱陵島から10月6日三陟へ戻った。張漢相の鬱陵島審察については『粛宗実録』にも記録されているが、「鬱陵島事蹟」により詳しく記されている。
張漢相は鬱陵島審察結果を、山川・道里を記して挿入した地図とともに政府に報告した。その要旨は、倭人が往来した痕跡はあるが住んではいないこと、海路が穏やかではなく日本が横占しても除防が難しいこと、土質から〓麦を植えてきたこと等であった(注2)。
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調査団長である張漢相が任命された僉使ですが、これは各鎮台に属した従三品の武官職をさします。張僉使が日本語の通訳まで連れていったのは、日本人と遭遇した場合にそなえたためだったことはいうまでもありません。本腰を入れた対応でした。
そうした周到な準備のため、一行は150人もの大人数になったのですが、それだけに調査には熱が入りました。一行は鬱陵島の地図まで作成するなど綿密な調査をしたようですが、このとき冒頭に述べたようなエピソードがありました。すなわち、調査の過程で一行は竹島=独島を目視することができたようでした。張漢相はそれを報告書(?)「鬱陵島事蹟」に次のように記しました。
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東側五里ほどに一つの小さな島があるが、高大ではなく海長竹が一面に叢生している。雨があがり、霧(?、ママ)が晴れた日、山に入って中峰に登ると南北の両峰が見上げるばかりに高く向かい合っているがこれを三峰という。
西側を眺めると大関嶺のくねくねとした姿が見え、東側を眺めると海の中に一つの島がみえるが、はるかに辰方向に位置して、その大きさは蔚島の三分の一未満で(距離は)三百余里に過ぎない(注3)。
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(つづく)
これは メッセージ 1290 (hangetsujoh さん)への返信です.
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