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『隠州視聴合記』と朱印状2

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/11/20 21:58 投稿番号: [12297 / 18519]
   池内敏氏の実証的な研究の成果からすると『隠州視聴合記』に関するかぎり、日本政府の主張は誤りであり、韓国政府の主張が正しかったという結論になります。
   ついでにいえば、日本政府が帰属の根拠としてあげた他の史料『竹島図説』と『長生竹島記』ですが、これらは私的な伝聞資料であり、とても領有権の根拠として使えるような権威あるものでないことは特筆したいと思います。
   そのため「我田引水的 文献解釈」が口癖の下條正男氏すら、『竹島図説』と『長生竹島記』には見向きもしないようです。下條氏がひたすらよりどころにしている史料は『隠州視聴合記』ですが、それによる領有根拠が池内氏によって微塵に打ち砕かれてしまっては、下條氏も立つ瀬がないようです。

  te2222000さん、No.12292
>(c) 朱印状は外国へ行く場合以外にも様々なケースで発行されており、焼火山縁起の記述は竹島を外国とみなしている証拠にはならない。

  『隠州視聴合記』が書かれた斉藤豊仙の時代において「様々なケース」とは具体的にどんな場合でしょうか。
   江戸時代、幕府の朱印状が発行される場合を『世界大百科事典』は下記のように記しました(注3)。

1.朱印船
2.外交文書
3.10万石未満の所領安概・社寺領寄進

   徳川幕府初代の家康の時代はいざ知らず、幕藩体制が固まったころから、これは徳川 第2代あるいは第3代あたりからでしょうか、将軍家は上記以外の軽微な公文書には黒印状を発行したようです。そうした中で、徳川第3代・家光の時代に斉藤豊仙が脳裏にえがいた「官より朱印を賜った大舶」というのは、やはり朱印船のイメージが強かったのではないでしょうか?
   なお、ここでは村川の大舶が朱印船であったかどうかを問題にしているのではありませんので、念のために書きそえます。

   VIVA_VIVA_21さん、No.9304
>前述のように朱印とは外国との貿易だけのものであるという妄想を持った方も見受けられますが、朱印とは公儀公認という意味であり、決して海外貿易だけに適用されるものではありません。
もっと分かりやすくするために、いくつか例をあげましょう。
関ヶ原の戦いの後、大久保長安は石見銀山に奉行に入る際に徳川家康発給の「朱印状」を持っており、石見銀山は「御朱印地」となりました。この時点での朱印は幕府の独占開発権の設定という意味合いを持ちます。その権限を大久保長安が命じられたわけです。

   VIVA_VIVA_21さんは、幕藩体制以前の古い朱印状として石見銀山の例をとりあげ、これは「独占開発権の設定という意味合い」と書いてますが、この時の朱印状は「開発のための朱印状」というより、幕府直轄地(天領)の奉行に大久保を任命した「任命状」だったのではないでしょうか?
   石見銀山は1533年にはすでに精錬が始まっており、鉱山開発は大久保の任命より約70年も昔のことです。それにVIVA_VIVA_21さんは「ご朱印地となりました」と書きましたが、なぜ「天領になりました」と書かなかったのでしょうか?   銀山が天領になったことを『世界大百科事典』はこう記しました。

  「関ヶ原の戦後に銀山と銀山領の石見国の一半は天領となり,1601年(慶長6)大久保長安が奉行に任じ,邇摩郡佐摩村に大森の陣屋が開かれた」

  「我田引水的 文献解釈」は下條氏だけにしてほしいものです。もし「斉藤豊仙の時代」に朱印状が「開発」のためだけに発給されたケースがあるのならお目にかかりたいものです。
(つづく)
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