「竹島渡海免許」と光海君時代2
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/16 11:20 投稿番号: [1202 / 18519]
余談ですが、江戸時代は「鎖国」していたと勘違いしている人が多いようですが、それはまちがいです。すくなくとも朝鮮とは正式な国交が結ばれ、両国の人々は頻繁に往来していました。それにともない両国間の貿易も長崎におけるオランダや清との貿易に匹敵するほどでした。
さて、対馬藩の「道案内」依頼ですが、これに関連した日本側史料に幕府の外交文書集『通航一覧』があります。これは対馬藩の『朝鮮通航大紀』をこう引用しました。
「慶長17壬子年(19年,1614の誤り)宗対馬守義智より朝鮮国東来府使に書を贈りて、竹島(鬱陵島)は日本属島なるよしを論せしに、彼許さず、よりて猶(なお)使書往復に及ぶ(注3)」( )内は半月城注。
前々から対馬藩は鬱陵島に移り住みたいと朝鮮に申し出て、竹島(鬱陵島)の領有をもくろんでいたのですが、どうやら「道案内」の話は対馬藩と幕府がある程度通じていたようでした。これを受けた朝鮮側は尹守謙の復書でこう回答しました。
「書中に磯竹島とあるのを見て驚いているところである。日本からの使者にこの島はどこのものかと問うたところ、これは慶尚道と江原道の海上にある島であるという。
これはすなわち朝鮮の鬱陵島であり『東国輿地勝覧』にも掲載されており、いまは荒廃しているが他国人に占拠される理由はない。
日本と朝鮮との間の境界は明確になっており、日本人が朝鮮に往来できるのは対馬を経由する一路だけであり、それ以外の来航は海賊とみなすということは、すでに約定している通りである。対馬が知らないはずはない(注4)」
朝鮮は、磯竹島は鬱陵島であり、空島にしているとはいえ、朝鮮領であるという立場から強硬な姿勢で返書を送りました。その結果、幕府は竹島(鬱陵島)を朝鮮領と認めざるをえなかったようで、それは磯竹弥左衛門事件の処理に示されました。
事件の発端は、1617年、京都の伏見城における朝鮮通信使と老中・土井利勝との対話がきっかけだったようでした。朝鮮通信使とは日朝両国の信や誼を通じるため、室町時代から将軍の代替わりなどのおりに日本を訪れた朝鮮政府の使節でした。
伏見に来た通信使は、秀吉の侵略戦争で断絶した国交を修復すべく徳川家康および対馬藩の積極的な働きかけで来日したものであり、正式には「回答兼刷還使」とよばれました。このとき同行した従事官の記録『李石門 扶桑録』に弥左衛門のことがこう記されました。
「秀吉の時代に願い出て磯竹島に渡って材木などを伐採して持ち帰り、秀吉に大変喜ばれ、磯竹弥左衛門と呼ばれていた。彼は島に渡ることで生計を立て毎年貢租を納めていたが、秀吉の死後に弥左衛門もつづいて死去し、いまでは島に往来する者もいなくなったという。このことを聞いた家康が事実確認を求めた(注3)」
国交回復に熱心だった当時の徳川幕府は、弥左衛門の件は通信使のほうから切り出された話とあって放っておくわけにもいかなかったとみえ、対馬藩に命じて弥左衛門らを潛商、すなわち密貿易の罪で捕らえました。
その結末が『通航一覧』に「元和六庚申年、宗對島守義成、命によりて竹島(朝鮮國属島)に於て潛商のもの二人を捕えて京師に送る(その罪科いま所見なし)」と記されました(注3)。
ここで( )内は小さな字で書かれた部分ですが、竹島の補足として「朝鮮国属国」と明示されたのが注目されます。幕府は竹島(鬱陵島)を朝鮮領と考えていたことを示します。これについてはすでに#661<江戸時代の竹島(鬱陵島)「編入」>に書いたとおりです。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=661
(つづく)
さて、対馬藩の「道案内」依頼ですが、これに関連した日本側史料に幕府の外交文書集『通航一覧』があります。これは対馬藩の『朝鮮通航大紀』をこう引用しました。
「慶長17壬子年(19年,1614の誤り)宗対馬守義智より朝鮮国東来府使に書を贈りて、竹島(鬱陵島)は日本属島なるよしを論せしに、彼許さず、よりて猶(なお)使書往復に及ぶ(注3)」( )内は半月城注。
前々から対馬藩は鬱陵島に移り住みたいと朝鮮に申し出て、竹島(鬱陵島)の領有をもくろんでいたのですが、どうやら「道案内」の話は対馬藩と幕府がある程度通じていたようでした。これを受けた朝鮮側は尹守謙の復書でこう回答しました。
「書中に磯竹島とあるのを見て驚いているところである。日本からの使者にこの島はどこのものかと問うたところ、これは慶尚道と江原道の海上にある島であるという。
これはすなわち朝鮮の鬱陵島であり『東国輿地勝覧』にも掲載されており、いまは荒廃しているが他国人に占拠される理由はない。
日本と朝鮮との間の境界は明確になっており、日本人が朝鮮に往来できるのは対馬を経由する一路だけであり、それ以外の来航は海賊とみなすということは、すでに約定している通りである。対馬が知らないはずはない(注4)」
朝鮮は、磯竹島は鬱陵島であり、空島にしているとはいえ、朝鮮領であるという立場から強硬な姿勢で返書を送りました。その結果、幕府は竹島(鬱陵島)を朝鮮領と認めざるをえなかったようで、それは磯竹弥左衛門事件の処理に示されました。
事件の発端は、1617年、京都の伏見城における朝鮮通信使と老中・土井利勝との対話がきっかけだったようでした。朝鮮通信使とは日朝両国の信や誼を通じるため、室町時代から将軍の代替わりなどのおりに日本を訪れた朝鮮政府の使節でした。
伏見に来た通信使は、秀吉の侵略戦争で断絶した国交を修復すべく徳川家康および対馬藩の積極的な働きかけで来日したものであり、正式には「回答兼刷還使」とよばれました。このとき同行した従事官の記録『李石門 扶桑録』に弥左衛門のことがこう記されました。
「秀吉の時代に願い出て磯竹島に渡って材木などを伐採して持ち帰り、秀吉に大変喜ばれ、磯竹弥左衛門と呼ばれていた。彼は島に渡ることで生計を立て毎年貢租を納めていたが、秀吉の死後に弥左衛門もつづいて死去し、いまでは島に往来する者もいなくなったという。このことを聞いた家康が事実確認を求めた(注3)」
国交回復に熱心だった当時の徳川幕府は、弥左衛門の件は通信使のほうから切り出された話とあって放っておくわけにもいかなかったとみえ、対馬藩に命じて弥左衛門らを潛商、すなわち密貿易の罪で捕らえました。
その結末が『通航一覧』に「元和六庚申年、宗對島守義成、命によりて竹島(朝鮮國属島)に於て潛商のもの二人を捕えて京師に送る(その罪科いま所見なし)」と記されました(注3)。
ここで( )内は小さな字で書かれた部分ですが、竹島の補足として「朝鮮国属国」と明示されたのが注目されます。幕府は竹島(鬱陵島)を朝鮮領と考えていたことを示します。これについてはすでに#661<江戸時代の竹島(鬱陵島)「編入」>に書いたとおりです。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=661
(つづく)
これは メッセージ 1201 (hangetsujoh さん)への返信です.
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