「竹島渡海免許」と光海君時代1
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/16 11:18 投稿番号: [1201 / 18519]
半月城です。
朝鮮史料の紹介もやっと中ほどになりましたが、今回は光海君時代をとりあげます。朝鮮時代、王の名前は*宗とか*祖とされるのが普通でした。これは死後に送られた諱(いみな)であり、在任中の王には名前がありませんでした。在任中は(主上)殿下と呼ばれ、名前は必要なかったのです。
しかし、死後に諱を送られなかった王もいました。そのひとりが第15代の王で、実録には皇太子時代の名前のまま『光海君日記』というタイトルで編纂されました。これは光海君が暴君であるとして、次の中宗の宮廷クーデターにより廃位させられたためであり「実録」という名称すら許されませんでした。
たしかに光海君は政争がらみで兄弟を殺害し、義母を幽閉するなど暴君の側面もありました。しかし、その一方で光海君は前回紹介した『東国輿地勝覧』を刊行したり、現在の日本でも出版されている不朽の医学書『東医寶鑑』を刊行したりするなど文化面でもすぐれた業績を残しました。
また、政治面でも豊臣秀吉の侵略で疲弊した国家経済を建て直したり、あるいは外交面でも手腕を発揮するなど英明な政治もおこないました。
前置きが長くなりましたが、光海君時代は竹島=独島問題でいえば徳川幕府による竹島(鬱陵島)渡海事業が開始された重要な時代でした。ここでは「竹島渡海免許」のいきさつや事情を日朝の史料から解明することにします。
竹島(鬱陵島)渡海の序曲は対馬藩から朝鮮あての外交書簡でした。朝鮮の史料『邊例集要』は対馬藩からの外交書簡を下記のように記録しました(注1)。
ここで『邊例集要』について補足しますが、これは壬辰倭乱(秀吉の朝鮮侵略)後より1841年までの約240年間、日本との往来や貿易、釜山における倭館の記録、条約や約定、日本の要求や潜商、雑犯罪など広範囲に収録した書籍です。対日関係史研究において重要な文献であり、筆写本がソウル大学の奎章閣に所蔵されています。
「対馬島主は、1614年(光海君6年)に朝鮮の東莱府に使者を遣わし、外交文書を伝えた。その文書には“徳川幕府の申し付けで磯竹島(鬱陵島)を調査しようと思うが、台風の危険性があるので道案内をしてほしい”と書かれてあった(注2)」
ここで対馬藩の役割について補足します。日本と朝鮮との正式国交は、豊臣秀吉による朝鮮侵略により中断されましたが、これに困窮したのが対馬藩でした。かつて朝鮮から倭寇対策の一環で禄や官職を与えられ、日朝貿易で潤っていた対馬藩は大口の収入源を絶たれ困窮の極みにありました。藩主の宗氏は、臣下に禄として与えていた土地はみる影もなかったので、実利的なものとして貿易の権利を与えていたくらいなので当然でした。
困境にあった対馬藩は起死回生をはかり、日朝の正式国交回復に奔走しました。その活動はたんに両国政府の間をとり結ぶだけでなく、両国政府の正式国書を勝手に改竄するほど徹底したものでした。対馬藩の執念をうかがい知ることができます。こうした偽造工作がみのり日朝国交回復が成し遂げられました。この功により同藩は朝鮮との外交や貿易を一手にまかされるようになりました。
(つづく)^
朝鮮史料の紹介もやっと中ほどになりましたが、今回は光海君時代をとりあげます。朝鮮時代、王の名前は*宗とか*祖とされるのが普通でした。これは死後に送られた諱(いみな)であり、在任中の王には名前がありませんでした。在任中は(主上)殿下と呼ばれ、名前は必要なかったのです。
しかし、死後に諱を送られなかった王もいました。そのひとりが第15代の王で、実録には皇太子時代の名前のまま『光海君日記』というタイトルで編纂されました。これは光海君が暴君であるとして、次の中宗の宮廷クーデターにより廃位させられたためであり「実録」という名称すら許されませんでした。
たしかに光海君は政争がらみで兄弟を殺害し、義母を幽閉するなど暴君の側面もありました。しかし、その一方で光海君は前回紹介した『東国輿地勝覧』を刊行したり、現在の日本でも出版されている不朽の医学書『東医寶鑑』を刊行したりするなど文化面でもすぐれた業績を残しました。
また、政治面でも豊臣秀吉の侵略で疲弊した国家経済を建て直したり、あるいは外交面でも手腕を発揮するなど英明な政治もおこないました。
前置きが長くなりましたが、光海君時代は竹島=独島問題でいえば徳川幕府による竹島(鬱陵島)渡海事業が開始された重要な時代でした。ここでは「竹島渡海免許」のいきさつや事情を日朝の史料から解明することにします。
竹島(鬱陵島)渡海の序曲は対馬藩から朝鮮あての外交書簡でした。朝鮮の史料『邊例集要』は対馬藩からの外交書簡を下記のように記録しました(注1)。
ここで『邊例集要』について補足しますが、これは壬辰倭乱(秀吉の朝鮮侵略)後より1841年までの約240年間、日本との往来や貿易、釜山における倭館の記録、条約や約定、日本の要求や潜商、雑犯罪など広範囲に収録した書籍です。対日関係史研究において重要な文献であり、筆写本がソウル大学の奎章閣に所蔵されています。
「対馬島主は、1614年(光海君6年)に朝鮮の東莱府に使者を遣わし、外交文書を伝えた。その文書には“徳川幕府の申し付けで磯竹島(鬱陵島)を調査しようと思うが、台風の危険性があるので道案内をしてほしい”と書かれてあった(注2)」
ここで対馬藩の役割について補足します。日本と朝鮮との正式国交は、豊臣秀吉による朝鮮侵略により中断されましたが、これに困窮したのが対馬藩でした。かつて朝鮮から倭寇対策の一環で禄や官職を与えられ、日朝貿易で潤っていた対馬藩は大口の収入源を絶たれ困窮の極みにありました。藩主の宗氏は、臣下に禄として与えていた土地はみる影もなかったので、実利的なものとして貿易の権利を与えていたくらいなので当然でした。
困境にあった対馬藩は起死回生をはかり、日朝の正式国交回復に奔走しました。その活動はたんに両国政府の間をとり結ぶだけでなく、両国政府の正式国書を勝手に改竄するほど徹底したものでした。対馬藩の執念をうかがい知ることができます。こうした偽造工作がみのり日朝国交回復が成し遂げられました。この功により同藩は朝鮮との外交や貿易を一手にまかされるようになりました。
(つづく)^
これは メッセージ 1098 (hangetsujoh さん)への返信です.
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