竹島

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>松島渡海免許

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/09/17 09:36 投稿番号: [11057 / 18519]
   半月城です。

   Re;11024
>江戸幕府は松島に対する渡航許可も1656年に出している

   これは、田中邦貴さんのホームページ「竹島問題」を無批判に引用しているようですが、今や「竹島日本領派」の学者すら川上健三氏のいう「松島渡海免許」なるものは幕府から交付されなかったと考えています。
   すなわち、国会図書館の塚本孝氏すら「松島(今日の竹島)については“竹島”の場合のような渡海許可の公文書は残っていない(恐らく出されなかった)(注1)」と記しているくらいです。

   これを資料面で検証したのが名古屋大学の池内氏です。池内氏は松島、竹島をめぐる史実の解明に努め、村川市兵衛や大谷九右衛門の松島渡海の実態や、両者の利害関係を調整した旗本、阿部四郎五郎の役割などを解明し、こう述べました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1640年代後半ないしは50年代はじめから、右史料傍線部に見られるような松島経営の展望を温めていた村川からすれば、たとえ単独であっても松島渡海事業は行いたかったであろう。そして遅くとも明暦3(1657)年にはそれを実行に移していた。
   こうして村川単独による松島渡海の既成事実が進められていた以上、阿部四郎五郎の存生中に老中から得たという内意(史料7b)は、松島渡海の新規許可ではありえない。

   また、「市兵衛殿・貴様(九右衛門のこと、半月城注)へ」交付した「証文(史料7c)もまた同様に松島渡海の新規許可ではありえない。それらは「市兵衛殿・貴様」両者へ交付されたものであったから、村川単独により既成事実化された松島渡海を追認し、免許を与えるものともなりえない。
   先年渡しておいた「證文」どおりに「船御渡可被成」(史料7d)ともいうのだから、「内意」にしろ証文にしろ、おそらくは村川が先行して進めていた単独での松島渡海を刷新し、大谷・村川双方による渡海事業へと調整する内容をもつものではなかっただろうか。大谷と村川の「談合」(史料5f)や「御相談」(史料7c)を重視したのはその点と関係する(注2)。
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/ronbun/ikeuchi1999.pdf
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   竹島(鬱陵島)渡海免許が出された1625年ころは、まだ松島(竹島=独島)の存在は知られなかったのか話題になりませんでしたが、1657年ころ、はじめて村川家が松島へ渡海するようになった後、同島への渡海をめぐって大谷家と利害調整をする必要が生じました。
   それを取りもったのが旗本、阿部四郎五郎ですが、同時にかれは松島渡海に関して老中の「御内意」を得たようでした。これをふくらませて川上健三氏は「松島渡海免許」なるものを創造したようですが、池内氏はこれに疑問を呈しました。
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   三代目大谷九右衛門は松島拝領と渡海について述べるものの、「寛永初年竹島渡海免許」のごとき文書の存在については言及しない。
   また、寛文6(1666)年、大谷船が朝鮮に漂着して対馬藩による所持品検査がなされた際、「竹島渡海免許」は見いだされたが「松島渡海免許」なるものは見当たらない。(川上説の、半月城注)発行からわずか10年を隔てない時期に、大谷船はなぜゆえに免許を携行しなかったのだろうか(注2)。
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(つづく)
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