河野洋平氏インタビュー
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/10/29 13:34 投稿番号: [4636 / 7270]
10月26日付朝P朝刊
『歴史と向き合う
河野洋平氏インタビュー
(記者、質問)―ベトナムのズン首相を国会に迎えた19日のあいさつで、(河野洋平衆議院議長は)「先の大戦で、我が国の軍政下において(ベトナムに)多数の餓死者を出したことを忘れてはならない」と言及されました。歴史問題に踏み込んで発言されているのはなぜですか。
(河野氏)「戦争の記憶が風化していると感じるからです。私は国民学校の1、2年生のときに空襲を受け、防空壕に飛び込みました。戦争の恐ろしさを体で知る最後の世代です。(中略)。時が立ち、世代が代わると、それが薄れてきているから、心配しているのです」
(後略)。―引用終わり―』
ということで、ベトナムの餓死者について調べてみました。
手持ちの資料では、ベトナムに駐留した日本軍は96500人です。
高山正之・変見自在
http://kaz1910032-hp.hp.infoseek.co.jp/110717.html
ハノイの中心街に元フランス植民地政府の徴税局がある。
「よくもここまで思いついた」(A・ビオリス「インドシナSOS」)さまざまな税金やアヘンの売り上げがここでまとめられ、本国に送金されていた。
そこは今、「革命博物館」に装いを変え、「植民地支配に最も効果的だった」(同)ギロチンや拷問道具、ベトナム戦争時代のボール爆弾など百年に及ぶ戦いの記録が展示されている。
今、口先できれいごとを並べる大国の本性を見る思いがするが、そんな中に一室、「日本軍との戦い」と書かれた部屋があった。
のぞいてみると「日本軍のためハノイでは二百万人が餓死したり殺されたりした」と説明書きがあって山積みにされた骸骨(がいこつ)の写真がかかっていた。南京の三十万でも驚かされたのに、なんでこんなところで二百万なんだと、もっとびっくりさせられる。
「そう、日本軍は四年間の統治の間に、燃料が不足したといってはモミを徴発して燃やしたりして飢餓をもたらした」とベトナム研究で知られる東京の某大学教授はいう。「日本はここでも残虐行為をしていた」と。
でも、素朴な疑問がある。日本軍がベトナムを支配したのは昭和二十年三月、クーデターを起こして仏植民地軍を追っ払ってから終戦までの五カ月間。どうやればそんな短期間に二百万人を餓死させられたのか。
「へっ」と教授、「日本の支配って五カ月間なの?」
そう、フランスがずっと実権を握ってきた。今に残るサイゴンのチーファ刑務所も昭和十八年に完成し、どしどしベトナム人政治犯を送り込んでいたほどだ。
二百万人餓死問題だって、ハノイの人民委員会幹部はあっさり「政治宣伝だった」と認める。「あの当時、ハノイ大洪水と干ばつに交互に見舞われ、多くの餓死者がでた。それを時期的に合うので日本軍と結び付けた。ただ、南の穀倉地帯との鉄道が連合国軍の爆撃で途絶えがちだったことも確かで、だから日本にも五十万、いや五万ぐらいの責任はあったはず」
随分、思い切った値切りぶりだが、その飢餓の中、「日本軍は仏植民地政府から食糧を買い、われわれが街角で炊き出しをして市民に配ったものです」(ハノイ高射砲部隊兵長、落合茂氏)という証言もある。
同盟通信の小山房二特派員は「ハノイの雑貨店マゾワイエの日本人女性が飢えた市民のために炊き出しをしていた」とも伝える。
この教授はそれも知らずに、ベトナム政府の宣伝を“正直”に信じてきたわけだが、世の中にはもっと変な「教授」もいる。
例えばスマトラ・ブキティンギの「日本の穴」問題。
旧日本軍が地元民十数万人を強制労働に駆り立て地下要塞をつくったあと、彼らの口を封じるために「深い谷底に通じる穴」に投げ込んで虐殺したと、早大の後藤教授が新聞に掲載した。これはベトナムの二百万人話のように現地政府が政治宣伝に創ったものの引用でもなく、単に同教授の創作話だった(石井英夫「蛙の遠めがね」)ことが判明している。
ところが、さらに驚いたことに創作と分かったあと、今度は名大大学院の女性教授がこの話の受け売りを盛んに始めた。どうせなら別の話を創作すればいいのにと思うが、そういう能力はこの教授にはなかったらしい。(後略)
『歴史と向き合う
河野洋平氏インタビュー
(記者、質問)―ベトナムのズン首相を国会に迎えた19日のあいさつで、(河野洋平衆議院議長は)「先の大戦で、我が国の軍政下において(ベトナムに)多数の餓死者を出したことを忘れてはならない」と言及されました。歴史問題に踏み込んで発言されているのはなぜですか。
(河野氏)「戦争の記憶が風化していると感じるからです。私は国民学校の1、2年生のときに空襲を受け、防空壕に飛び込みました。戦争の恐ろしさを体で知る最後の世代です。(中略)。時が立ち、世代が代わると、それが薄れてきているから、心配しているのです」
(後略)。―引用終わり―』
ということで、ベトナムの餓死者について調べてみました。
手持ちの資料では、ベトナムに駐留した日本軍は96500人です。
高山正之・変見自在
http://kaz1910032-hp.hp.infoseek.co.jp/110717.html
ハノイの中心街に元フランス植民地政府の徴税局がある。
「よくもここまで思いついた」(A・ビオリス「インドシナSOS」)さまざまな税金やアヘンの売り上げがここでまとめられ、本国に送金されていた。
そこは今、「革命博物館」に装いを変え、「植民地支配に最も効果的だった」(同)ギロチンや拷問道具、ベトナム戦争時代のボール爆弾など百年に及ぶ戦いの記録が展示されている。
今、口先できれいごとを並べる大国の本性を見る思いがするが、そんな中に一室、「日本軍との戦い」と書かれた部屋があった。
のぞいてみると「日本軍のためハノイでは二百万人が餓死したり殺されたりした」と説明書きがあって山積みにされた骸骨(がいこつ)の写真がかかっていた。南京の三十万でも驚かされたのに、なんでこんなところで二百万なんだと、もっとびっくりさせられる。
「そう、日本軍は四年間の統治の間に、燃料が不足したといってはモミを徴発して燃やしたりして飢餓をもたらした」とベトナム研究で知られる東京の某大学教授はいう。「日本はここでも残虐行為をしていた」と。
でも、素朴な疑問がある。日本軍がベトナムを支配したのは昭和二十年三月、クーデターを起こして仏植民地軍を追っ払ってから終戦までの五カ月間。どうやればそんな短期間に二百万人を餓死させられたのか。
「へっ」と教授、「日本の支配って五カ月間なの?」
そう、フランスがずっと実権を握ってきた。今に残るサイゴンのチーファ刑務所も昭和十八年に完成し、どしどしベトナム人政治犯を送り込んでいたほどだ。
二百万人餓死問題だって、ハノイの人民委員会幹部はあっさり「政治宣伝だった」と認める。「あの当時、ハノイ大洪水と干ばつに交互に見舞われ、多くの餓死者がでた。それを時期的に合うので日本軍と結び付けた。ただ、南の穀倉地帯との鉄道が連合国軍の爆撃で途絶えがちだったことも確かで、だから日本にも五十万、いや五万ぐらいの責任はあったはず」
随分、思い切った値切りぶりだが、その飢餓の中、「日本軍は仏植民地政府から食糧を買い、われわれが街角で炊き出しをして市民に配ったものです」(ハノイ高射砲部隊兵長、落合茂氏)という証言もある。
同盟通信の小山房二特派員は「ハノイの雑貨店マゾワイエの日本人女性が飢えた市民のために炊き出しをしていた」とも伝える。
この教授はそれも知らずに、ベトナム政府の宣伝を“正直”に信じてきたわけだが、世の中にはもっと変な「教授」もいる。
例えばスマトラ・ブキティンギの「日本の穴」問題。
旧日本軍が地元民十数万人を強制労働に駆り立て地下要塞をつくったあと、彼らの口を封じるために「深い谷底に通じる穴」に投げ込んで虐殺したと、早大の後藤教授が新聞に掲載した。これはベトナムの二百万人話のように現地政府が政治宣伝に創ったものの引用でもなく、単に同教授の創作話だった(石井英夫「蛙の遠めがね」)ことが判明している。
ところが、さらに驚いたことに創作と分かったあと、今度は名大大学院の女性教授がこの話の受け売りを盛んに始めた。どうせなら別の話を創作すればいいのにと思うが、そういう能力はこの教授にはなかったらしい。(後略)
これは メッセージ 4635 (trip_in_the_night さん)への返信です.
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