れRe: 「戦う民主主義」
投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2006/04/06 04:02 投稿番号: [3751 / 7270]
少し時間が取れるようになりました。
>反民主主義的・反自由主義的な言論を、「悪質な言論」と表現すると、
日本の憲法の民主主義は、「悪質な言論も、自由な討論を通じて淘汰される」という考え方ですが、
ドイツの戦う民主主義では、「悪質な言論は、自由な討論に参加する権利がなく、排除される」という考え方ですね。
思想の自由市場理論は正しいとおもっています。
思想に関しては、徹底した自由主義を取る日本のほうが正しいと思います。
「悪質な」、も内容が政治的に悪質とされるのが、文化的に悪質にされるのかなどの分類もあると思いますが、双方とも自由市場に委ね、取り締まる場合は事後取締り(例えば猥褻文書の頒布に対する罰則)に術北だと思います。特に政治的な言論の場合はいかなるものも事前禁止にすべきではないですね。
J.B.ビュアリの「思想の自由の歴史」が本棚にあったのでちょっと読み返しましたが、この最初の1ページがすべてを語っているように見えます(岩波新書で日本語訳がでていると思いますが)。本当に常識的な正しいことを言っていると思います。
人間が何かを考える場合、その内容は自己の知識と経験にのみによって制約される。(この点に関しては、人間は何を考えようともまったく自由である。殺人を考えても実行しなければよい。この内心の自由は絶対的に保証される。が、この内心の自由も踏絵等の行為で破られることがあるので、やはり保証されるものとして保護する必要がある)。
が、人間は考えるだけでは満足しない。考えたことを伝達したいという感情があり、また、考えたことを隣人に自由に発表できないのであれば、その考えそのものが社会的意味をもたなくなる。従って、内心の自由は必然的に発表の自由を伴うべきである・・・・(一部脚色してあります。原文英語)
ドイツが戦う民主主義をとったということは、結局は反対の方向から見ると、内心の自由を侵害していることになるのではないかなと思う次第です。
>やはり、ドイツがボン基本法を制定したときには、日本とは比較にならない、想像を絶するナチスの犯罪と、それを支持したドイツ国民が大勢いましたから、再び独裁へ向かう不安を払拭し、ユダヤ人との和解や西側諸国との信頼関係構築する必要があったことを考えると、再発防止装置としての「戦う民主主義」が必要だったかなと思います。
これが当方が前に述べたプラグマティズムの面、ということですね。
>現在のドイツであるならば、「戦う民主主義」でなくとも、従来型の民主主義でも充分に信頼できる国家ですが。
さて、われわれはもはや十分に信用される国家になったので、民主主義を正常な形に戻して、いかなる言論の禁止も許されないこととする、新ナチズムの宣伝もかまわない、となると、結構反動が周辺から起きるかもしれませんね。これは最初に禁止してしまったからでしょう。
>しかも東西ドイツ統一で、新しいドイツ憲法を制定するに当たり、西ドイツの憲法であるボン基本法の「戦う民主主義」をそのまま踏襲しました。
これも東ドイツの旧共産党勢力による一党独裁体制を否定するために必要だったためでしょう。
西ドイツの時代に共産党が憲法違反とされたのもこの規定によってですね。東西統一で共産党の一党独裁が行なわれることはほとんど考えられないのですが、それでも残したということは、やはりプラグマティズムでしょう。ドイツの戦後もまだ終わっていない、ということでしょうか。
>ガス爆発の危険の日独比較について、憲法から離れて国際情勢を見ると、ドイツはソ連の崩壊とEU参加で、安全保障の不安要素が低くなっているのに対して、日本は特定アジア三国のために不安定になりつつあります。
憲法の問題以前に、日本のガス(ストレス)が溜まっている度合いは、ドイツより大きいと言えないでしょうか。
「ナチスだけが悪かったのか」ということが自国ではいえず、むしろ外国の日本あたりの書籍にこのような意見が載るという意味では、ドイツ人は歴史の検証も出来ない状態ではあると思います。但し、これは本質的にはドイツ人がきめることですから。「ヒトラーが出てきたのは他国にも責任の一端がある」というような意見もいえないのでしょうかね。いつか詳しい人に聞いてみますが。
また、日本の場合も憲法の存在とガスのたまりは無関係ではなさそうですね。
>反民主主義的・反自由主義的な言論を、「悪質な言論」と表現すると、
日本の憲法の民主主義は、「悪質な言論も、自由な討論を通じて淘汰される」という考え方ですが、
ドイツの戦う民主主義では、「悪質な言論は、自由な討論に参加する権利がなく、排除される」という考え方ですね。
思想の自由市場理論は正しいとおもっています。
思想に関しては、徹底した自由主義を取る日本のほうが正しいと思います。
「悪質な」、も内容が政治的に悪質とされるのが、文化的に悪質にされるのかなどの分類もあると思いますが、双方とも自由市場に委ね、取り締まる場合は事後取締り(例えば猥褻文書の頒布に対する罰則)に術北だと思います。特に政治的な言論の場合はいかなるものも事前禁止にすべきではないですね。
J.B.ビュアリの「思想の自由の歴史」が本棚にあったのでちょっと読み返しましたが、この最初の1ページがすべてを語っているように見えます(岩波新書で日本語訳がでていると思いますが)。本当に常識的な正しいことを言っていると思います。
人間が何かを考える場合、その内容は自己の知識と経験にのみによって制約される。(この点に関しては、人間は何を考えようともまったく自由である。殺人を考えても実行しなければよい。この内心の自由は絶対的に保証される。が、この内心の自由も踏絵等の行為で破られることがあるので、やはり保証されるものとして保護する必要がある)。
が、人間は考えるだけでは満足しない。考えたことを伝達したいという感情があり、また、考えたことを隣人に自由に発表できないのであれば、その考えそのものが社会的意味をもたなくなる。従って、内心の自由は必然的に発表の自由を伴うべきである・・・・(一部脚色してあります。原文英語)
ドイツが戦う民主主義をとったということは、結局は反対の方向から見ると、内心の自由を侵害していることになるのではないかなと思う次第です。
>やはり、ドイツがボン基本法を制定したときには、日本とは比較にならない、想像を絶するナチスの犯罪と、それを支持したドイツ国民が大勢いましたから、再び独裁へ向かう不安を払拭し、ユダヤ人との和解や西側諸国との信頼関係構築する必要があったことを考えると、再発防止装置としての「戦う民主主義」が必要だったかなと思います。
これが当方が前に述べたプラグマティズムの面、ということですね。
>現在のドイツであるならば、「戦う民主主義」でなくとも、従来型の民主主義でも充分に信頼できる国家ですが。
さて、われわれはもはや十分に信用される国家になったので、民主主義を正常な形に戻して、いかなる言論の禁止も許されないこととする、新ナチズムの宣伝もかまわない、となると、結構反動が周辺から起きるかもしれませんね。これは最初に禁止してしまったからでしょう。
>しかも東西ドイツ統一で、新しいドイツ憲法を制定するに当たり、西ドイツの憲法であるボン基本法の「戦う民主主義」をそのまま踏襲しました。
これも東ドイツの旧共産党勢力による一党独裁体制を否定するために必要だったためでしょう。
西ドイツの時代に共産党が憲法違反とされたのもこの規定によってですね。東西統一で共産党の一党独裁が行なわれることはほとんど考えられないのですが、それでも残したということは、やはりプラグマティズムでしょう。ドイツの戦後もまだ終わっていない、ということでしょうか。
>ガス爆発の危険の日独比較について、憲法から離れて国際情勢を見ると、ドイツはソ連の崩壊とEU参加で、安全保障の不安要素が低くなっているのに対して、日本は特定アジア三国のために不安定になりつつあります。
憲法の問題以前に、日本のガス(ストレス)が溜まっている度合いは、ドイツより大きいと言えないでしょうか。
「ナチスだけが悪かったのか」ということが自国ではいえず、むしろ外国の日本あたりの書籍にこのような意見が載るという意味では、ドイツ人は歴史の検証も出来ない状態ではあると思います。但し、これは本質的にはドイツ人がきめることですから。「ヒトラーが出てきたのは他国にも責任の一端がある」というような意見もいえないのでしょうかね。いつか詳しい人に聞いてみますが。
また、日本の場合も憲法の存在とガスのたまりは無関係ではなさそうですね。
これは メッセージ 3734 (trip_in_the_night さん)への返信です.
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