韓国の「反日」における文化的優越意識②
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/03/14 19:00 投稿番号: [3659 / 7270]
こうした経過をたどって、夷狄から禽獣に格下げされた日本が、現実には後発帝国主義国として韓国を植民地支配するようになったのだから、日本に対する意識は一七世紀以来の対清意識よりさらに深刻なものにならざるをえなかった。
李朝末期の知識人たちは、人類(朝鮮)と夷秋(清・近世日本)、人類と禽獣(西洋・近代日本)という形で、全面肯定と全面否定を対置させる発想にしばられていた。全面肯定されたものに改革の必要はなく、そこでは自尊意識は生じえても、新しい飛躍へのバネは生じにくい。
六〇年代初期、軍事革命によって登場した朴政権により日韓会談が再開されたころの文章
韓国国語学会の重鎮が総合雑誌に書いたもので、日本は忘恩背徳の国、文化的後進国だというトーンで一貫している。すなわち、儒教、仏教をはじめ、建築、工芸、美術、音楽、天文地理、農蚕、医薬等、人間生活に福利となるものはすべて韓民族が日本に与えたのに対し、日本は倭冠、壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)そして植民地支配と、加害者としてのみ、韓民族に臨んだという事実がまず列挙される。李煕昇「日本文化人に送る公開書翰」
(参考、韓国の高校国定教科書)
http://members.at.infoseek.co.jp/ST22/k/2.htm#2-4-5
氏はさらに、日本人が忘恩背徳の過去の清算を実証して見せなければならないと求める。そして実証的な行動としては、日本が「独島(日本でいう竹島)や平和ライン(同じく李承晩ライン)などに神経を逆立てず、これに対する無理無法な要求をきっぱりと放棄すること」を要求している。
こうした論の特徴は、忘恩背徳という倫理的次元の問題が、外交次元の問題にそのまま結びつけられていることである。このことを逆の方向からいうと、外交問題で韓国の意に副うような行動を日本が採らない限り、日本は道義的劣等性を免れないことになる。だが、現実の外交はある線で妥協するものだから、その結末が韓国民の意に一〇〇パーセント副うことはありえない。したがって、韓国人にとって日本は、常に道義的に糾弾される資格(?)を持ちつづけることになるのである。一方、韓国政府も、そのような背徳漢日本と妥協したことによって、国民から非難されつづけることになる。
(しかも韓国社会には、日本文化の浸透が続く。「反日」「排日」とは裏腹な現象に苦しむことになる。)
教科書問題で反日キャンペーンが盛んだった八二年夏の記事
われわれはすべてが、韓国人は優秀だということを知らなければなりません。体力でも頭脳でもわが民族はいまや東洋一です。世界のどの民族と比べても優秀です(『東亜日報』八二年九月二日付)。
はたして今日のわれわれは日本の亜流ではないと、自信をもっていえるだろうか。まるで誰が先に日本のものの真似をするかに、この国での成功・不成功がかかっているみたいな思いさえ抱かされる(『韓国日報』八二年九月一日付)。
民族の誇りが常に他者に対する対抗論として出てくるのは、こうした論議の最大弱点である。それらは清という夷秋、西洋という禽獣、日本という支配者に対する抵抗の心理的拠点というワクを出ないからだ。常に強力な他者の存在が前提とされる、他者あっての思考という性格が濃いのである。
激しい蔑視と拒絶がある一方で、接触すれば相手側に席捲されてしまうという弱者意識がのぞいていることは、奇妙なコントラストをなしている。それは観念と現実との乖離を示すものといってもよく、このパターンは、今日もつづいているように見える。日本文化の劣等性を語る声がある一方で、日本文化の侵略を憂えたり、日本に対する劣等感が清算されていないという意見が語りつづけられているからである。
(そして、感情的反日から克日へと転換しようという意見が出てくる。しかし、・・・)
李朝末期の知識人たちは、人類(朝鮮)と夷秋(清・近世日本)、人類と禽獣(西洋・近代日本)という形で、全面肯定と全面否定を対置させる発想にしばられていた。全面肯定されたものに改革の必要はなく、そこでは自尊意識は生じえても、新しい飛躍へのバネは生じにくい。
六〇年代初期、軍事革命によって登場した朴政権により日韓会談が再開されたころの文章
韓国国語学会の重鎮が総合雑誌に書いたもので、日本は忘恩背徳の国、文化的後進国だというトーンで一貫している。すなわち、儒教、仏教をはじめ、建築、工芸、美術、音楽、天文地理、農蚕、医薬等、人間生活に福利となるものはすべて韓民族が日本に与えたのに対し、日本は倭冠、壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)そして植民地支配と、加害者としてのみ、韓民族に臨んだという事実がまず列挙される。李煕昇「日本文化人に送る公開書翰」
(参考、韓国の高校国定教科書)
http://members.at.infoseek.co.jp/ST22/k/2.htm#2-4-5
氏はさらに、日本人が忘恩背徳の過去の清算を実証して見せなければならないと求める。そして実証的な行動としては、日本が「独島(日本でいう竹島)や平和ライン(同じく李承晩ライン)などに神経を逆立てず、これに対する無理無法な要求をきっぱりと放棄すること」を要求している。
こうした論の特徴は、忘恩背徳という倫理的次元の問題が、外交次元の問題にそのまま結びつけられていることである。このことを逆の方向からいうと、外交問題で韓国の意に副うような行動を日本が採らない限り、日本は道義的劣等性を免れないことになる。だが、現実の外交はある線で妥協するものだから、その結末が韓国民の意に一〇〇パーセント副うことはありえない。したがって、韓国人にとって日本は、常に道義的に糾弾される資格(?)を持ちつづけることになるのである。一方、韓国政府も、そのような背徳漢日本と妥協したことによって、国民から非難されつづけることになる。
(しかも韓国社会には、日本文化の浸透が続く。「反日」「排日」とは裏腹な現象に苦しむことになる。)
教科書問題で反日キャンペーンが盛んだった八二年夏の記事
われわれはすべてが、韓国人は優秀だということを知らなければなりません。体力でも頭脳でもわが民族はいまや東洋一です。世界のどの民族と比べても優秀です(『東亜日報』八二年九月二日付)。
はたして今日のわれわれは日本の亜流ではないと、自信をもっていえるだろうか。まるで誰が先に日本のものの真似をするかに、この国での成功・不成功がかかっているみたいな思いさえ抱かされる(『韓国日報』八二年九月一日付)。
民族の誇りが常に他者に対する対抗論として出てくるのは、こうした論議の最大弱点である。それらは清という夷秋、西洋という禽獣、日本という支配者に対する抵抗の心理的拠点というワクを出ないからだ。常に強力な他者の存在が前提とされる、他者あっての思考という性格が濃いのである。
激しい蔑視と拒絶がある一方で、接触すれば相手側に席捲されてしまうという弱者意識がのぞいていることは、奇妙なコントラストをなしている。それは観念と現実との乖離を示すものといってもよく、このパターンは、今日もつづいているように見える。日本文化の劣等性を語る声がある一方で、日本文化の侵略を憂えたり、日本に対する劣等感が清算されていないという意見が語りつづけられているからである。
(そして、感情的反日から克日へと転換しようという意見が出てくる。しかし、・・・)
これは メッセージ 3658 (trip_in_the_night さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/bdibf4bcta4na4bfa4aa4nffc4z5doc0bel_1/3659.html