韓国の「反日」における文化的優越意識
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/03/14 18:59 投稿番号: [3658 / 7270]
韓国人が日本人を批判・罵倒する時、なぜ「倭奴」「日本は美国の犬」「劣等民族」「黄色い猿が西洋人のマネをする」となどいった言葉が使われるのか。韓国自身を省みることなく。
なぜ、韓国人はスポーツや韓流に必死になるのか(スクリーン・クオータ制や韓流スターの兵役免除)。
なぜ、韓国軍は「独島は日帝の圧力で奪われた。その時は韓国の国力が弱かったために抗議・抵抗できなかった。これからは韓国の国力を増強し、守り通そう」と教えているのか。
トピも落ち気味なので、ホント号さんのサイトから、田中明著「韓国の民族意識と伝統」を抜粋してみました。
<注、()内の文章は投稿者>
----------------------------------------------------
韓国人の日本観について、それはつぎのようなイメージの複合だと書いたことがある。
▽李朝時代までは韓国から文化を摂取してきた文化的後進国。
明治以後は西洋文明の吸収に狂奔し、東洋のなかの西洋になった国。
▽日帝三六年間、わが民族を弾圧し搾取してきた奸悪な国。
▽第二次大戦後は朝鮮動乱に便乗して経済復興をしたのち、利益追求に敏なその特殊才能で経済大国にのし上がったエコノミック・アニマルの国。
▽経済的発展とともに軍事力も培養してきており、再びアジアの盟主をねらうかもしれない警戒すべき国。
▽米中など強者に弱く、弱小国には強く出る国。
韓国の反日キャンペーンでは、いつも第一項の文化的先進意識が強調される。そこには、われわれには文化的に優越の歴史があったにもかかわらず、今日、後進日本から軽視され侮辱を受けているという二重の心理的屈折がうかがわれる。そしてこのことが、反日の情念を一層燃え上がらせる機能を果たしているのである。これは同じ反日でも、その焦点の据え方が、中国など他のアジア諸国には見られない特徴といってよい。
一七世紀前半、朝鮮は満州に起こった後金(後の清)によって二度攻撃を受けた。明と後金との戦いで、朝鮮が上国(中国)に対する義理から明に味方したためである。一度目は兄弟の盟約を結ぶことで講和が成立したが、二度目の仁祖一四年(一六三六)には全面降伏を余儀なくされた。これによって朝鮮は、それまで事大の礼をとっていた明との断交を迫られたほか、王子を人質として送ったり、清に臣礼をとるという屈辱を味わうことになった。以後、朝鮮は三〇〇年近く、清を宗主国として国の経営をつづけていくことになる。
しかしながら、李朝の知識人の間には清朝蔑視の念が、清国が亡びるまで根強く残りつづけた。しかし、それが三〇〇年も継続しえたのは、儒教の優等生であり「小華の国」を自任していた朝鮮がはぐくみ育ててきた華夷思想を抜きにしては考えられない。
華夷思想とは、天の代理者である天子すなわち中国皇帝の支配が及ぶ範囲と及ぼぬ範囲を区別し、その間に貴賎上下の別を立てようとする思想である。儒教的観念によれば、中国の皇帝とは、人倫を明らかにし礼楽を盛んにすることによって民を教化する指導者であった。それゆえ皇帝の治下にある地域(中華)は、その外にある地域(夷狄)より文化的・道徳的に優越しているとされた。したがってそれに敵対するような勢力は野蛮人にほかならず、攘夷しなければならない存在であった。
夷に対する蔑視は当然同じ夷である日本に対しても向けられる。第一一回通信使(一七六四年)に随行した金仁謙はハングルで書いた歌辞(長詩)体の「日東壮遊歌」という日本紀行文を著わしているが、そこには日本を表わすのに、「倭ノム」(ノムは「奴」といった意味)という言葉がしばしば出てくる。
維新を完遂した日本政府は、王政復古を伝えるとともに、外交の再開を希望する旨の書契を朝鮮に送った。しかし、その中に「皇」「勅」の文字があったり、使用印が変えられたことなどから、朝鮮側は旧格に違うといって受理を拒んだ。朝鮮にとって、「皇」とは中国皇帝であり、「勅」とは中国皇帝の詔勅であって、これらの文字を日本が用いることは、とうてい認めることができなかった。
なぜ、韓国人はスポーツや韓流に必死になるのか(スクリーン・クオータ制や韓流スターの兵役免除)。
なぜ、韓国軍は「独島は日帝の圧力で奪われた。その時は韓国の国力が弱かったために抗議・抵抗できなかった。これからは韓国の国力を増強し、守り通そう」と教えているのか。
トピも落ち気味なので、ホント号さんのサイトから、田中明著「韓国の民族意識と伝統」を抜粋してみました。
<注、()内の文章は投稿者>
----------------------------------------------------
韓国人の日本観について、それはつぎのようなイメージの複合だと書いたことがある。
▽李朝時代までは韓国から文化を摂取してきた文化的後進国。
明治以後は西洋文明の吸収に狂奔し、東洋のなかの西洋になった国。
▽日帝三六年間、わが民族を弾圧し搾取してきた奸悪な国。
▽第二次大戦後は朝鮮動乱に便乗して経済復興をしたのち、利益追求に敏なその特殊才能で経済大国にのし上がったエコノミック・アニマルの国。
▽経済的発展とともに軍事力も培養してきており、再びアジアの盟主をねらうかもしれない警戒すべき国。
▽米中など強者に弱く、弱小国には強く出る国。
韓国の反日キャンペーンでは、いつも第一項の文化的先進意識が強調される。そこには、われわれには文化的に優越の歴史があったにもかかわらず、今日、後進日本から軽視され侮辱を受けているという二重の心理的屈折がうかがわれる。そしてこのことが、反日の情念を一層燃え上がらせる機能を果たしているのである。これは同じ反日でも、その焦点の据え方が、中国など他のアジア諸国には見られない特徴といってよい。
一七世紀前半、朝鮮は満州に起こった後金(後の清)によって二度攻撃を受けた。明と後金との戦いで、朝鮮が上国(中国)に対する義理から明に味方したためである。一度目は兄弟の盟約を結ぶことで講和が成立したが、二度目の仁祖一四年(一六三六)には全面降伏を余儀なくされた。これによって朝鮮は、それまで事大の礼をとっていた明との断交を迫られたほか、王子を人質として送ったり、清に臣礼をとるという屈辱を味わうことになった。以後、朝鮮は三〇〇年近く、清を宗主国として国の経営をつづけていくことになる。
しかしながら、李朝の知識人の間には清朝蔑視の念が、清国が亡びるまで根強く残りつづけた。しかし、それが三〇〇年も継続しえたのは、儒教の優等生であり「小華の国」を自任していた朝鮮がはぐくみ育ててきた華夷思想を抜きにしては考えられない。
華夷思想とは、天の代理者である天子すなわち中国皇帝の支配が及ぶ範囲と及ぼぬ範囲を区別し、その間に貴賎上下の別を立てようとする思想である。儒教的観念によれば、中国の皇帝とは、人倫を明らかにし礼楽を盛んにすることによって民を教化する指導者であった。それゆえ皇帝の治下にある地域(中華)は、その外にある地域(夷狄)より文化的・道徳的に優越しているとされた。したがってそれに敵対するような勢力は野蛮人にほかならず、攘夷しなければならない存在であった。
夷に対する蔑視は当然同じ夷である日本に対しても向けられる。第一一回通信使(一七六四年)に随行した金仁謙はハングルで書いた歌辞(長詩)体の「日東壮遊歌」という日本紀行文を著わしているが、そこには日本を表わすのに、「倭ノム」(ノムは「奴」といった意味)という言葉がしばしば出てくる。
維新を完遂した日本政府は、王政復古を伝えるとともに、外交の再開を希望する旨の書契を朝鮮に送った。しかし、その中に「皇」「勅」の文字があったり、使用印が変えられたことなどから、朝鮮側は旧格に違うといって受理を拒んだ。朝鮮にとって、「皇」とは中国皇帝であり、「勅」とは中国皇帝の詔勅であって、これらの文字を日本が用いることは、とうてい認めることができなかった。
これは メッセージ 1 (yusura_sdhk さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/bdibf4bcta4na4bfa4aa4nffc4z5doc0bel_1/3658.html