事実と解釈・評価
投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2006/02/22 06:16 投稿番号: [3590 / 7270]
事実ということによって、事実そのものの存在を言っていると思うけど、事実の存在そのものは意味がなく、それが意味を持つのは、その事実が認識された場合のみ。誰も知らぬ惑星にタイヤモンドが山とあっても、「人間に関わる限り」そのダイヤモンドの存在が人間に知られていなければ何の価値も持たない。人間がそれを知れば、では、そこまで行って採ってくるかということになる(宇宙論に関する人間中心主義ーanthropocentricismーもこれじゃないかな。宇宙が存在するのは、それを認識する者がいるから。我々の宇宙とは全く別の宇宙があっても、それを認識する者がいなければ、その宇宙は存在するとも、存在しないとも言えない)
ある現象(特に歴史的現象)においては事実は存在するだけでは意味がなく、それを知るためには認識しなければならない。事実の認識と、認識した事実の価値判断・評価・解釈とは別の次元。ところが、歴史的現象については、事実の認識の中に既に解釈、評価(価値判断)が持ち込まれてしまっていることが多い。
「歴史的客観的」事実について、E.H.カーはこう言っている。
「征服王ウイリアムズがイギリスに上陸した正確な日時と場所、トラファルガーやユトランドの海戦に参加した軍艦の数や火力、ある国の人口、貿易の統計など歴史に関する事実は確定され、テストされ、検証されうる。
しかしこれらの事実が「歴史上の事実」になるのは、これらを使おうとする歴史家の意思による。それらが自己の歴史学にとって重要であるとする歴史家の確信によるのである」
歴史について語ろうとして、ある事実に言及すること事態が一定の価値判断を示しているから、価値から自由な「客観的歴史的」事実というものはない。
「日韓併合はボランティアであった」といわなくても、「日韓併合」と言う事実自体、もしくは日韓併合に言及すること自体が一定の価値判断をしめしている。
ところで、個々の歴史的事実の評価・価値判断をどのレベルで行なうかも問題となる。これは歴史そのものをどう見るかに関わってくる。事実についての価値判断は実はこれに関わる。
人類の歴史は常に向上、上昇していくものだといういわゆる「進歩の歴史学」(「思想の自由の歴史」を書いたビュアリがその例。これは高校の頃原文でよんでるよ。もともとダーウィンの進化論・適者生存に基づいた社会的ダーウィニズムに基づいている)、歴史は頂点に達すれば必ず没落するものだとする「没落の歴史学」(西欧の没落を書いたシュペングラーやトインビーが含まれる)、歴史は神様が決めるものとする「摂理の歴史学」(イギリスの歴史家バターフィールドが含まれる。どういうわけかキリスト国でこの説を採る歴史家は結構いる)。
で、歴史的事実の選択・認識と評価などという価値判断はこれらの歴史の見方、歴史学によって変るから、植民地主義は悪いことではないという歴史学だって成り立ち得る。(強者が弱者を支配して何がわるいんだ、強者と弱者が平等などということこそ不合理だとする歴史学だって成り立ち得る)。
歴史についてももう一つの観点は、歴史は連続したものか、それとも個々の現象が独立しておきるものか、といういうことに関する。トインビーやシュペングラーは歴史は繰り返すものと見る。カーは、歴史は連続したもので、繰り返さないとみる。
カーの理論はこう。自然現象は同じ事柄が同じ条件では繰り返しおきるが、しかし歴史は人間が担う。人間は過去についての記憶をもつ。過去についての記憶を持つものは、歴史について同じことをやらない。(この歴史は繰り返さないというカーの理論については、具体例を挙げて以前レスを書いたよ)。
長くなったのでこの部分は終わり。
ある現象(特に歴史的現象)においては事実は存在するだけでは意味がなく、それを知るためには認識しなければならない。事実の認識と、認識した事実の価値判断・評価・解釈とは別の次元。ところが、歴史的現象については、事実の認識の中に既に解釈、評価(価値判断)が持ち込まれてしまっていることが多い。
「歴史的客観的」事実について、E.H.カーはこう言っている。
「征服王ウイリアムズがイギリスに上陸した正確な日時と場所、トラファルガーやユトランドの海戦に参加した軍艦の数や火力、ある国の人口、貿易の統計など歴史に関する事実は確定され、テストされ、検証されうる。
しかしこれらの事実が「歴史上の事実」になるのは、これらを使おうとする歴史家の意思による。それらが自己の歴史学にとって重要であるとする歴史家の確信によるのである」
歴史について語ろうとして、ある事実に言及すること事態が一定の価値判断を示しているから、価値から自由な「客観的歴史的」事実というものはない。
「日韓併合はボランティアであった」といわなくても、「日韓併合」と言う事実自体、もしくは日韓併合に言及すること自体が一定の価値判断をしめしている。
ところで、個々の歴史的事実の評価・価値判断をどのレベルで行なうかも問題となる。これは歴史そのものをどう見るかに関わってくる。事実についての価値判断は実はこれに関わる。
人類の歴史は常に向上、上昇していくものだといういわゆる「進歩の歴史学」(「思想の自由の歴史」を書いたビュアリがその例。これは高校の頃原文でよんでるよ。もともとダーウィンの進化論・適者生存に基づいた社会的ダーウィニズムに基づいている)、歴史は頂点に達すれば必ず没落するものだとする「没落の歴史学」(西欧の没落を書いたシュペングラーやトインビーが含まれる)、歴史は神様が決めるものとする「摂理の歴史学」(イギリスの歴史家バターフィールドが含まれる。どういうわけかキリスト国でこの説を採る歴史家は結構いる)。
で、歴史的事実の選択・認識と評価などという価値判断はこれらの歴史の見方、歴史学によって変るから、植民地主義は悪いことではないという歴史学だって成り立ち得る。(強者が弱者を支配して何がわるいんだ、強者と弱者が平等などということこそ不合理だとする歴史学だって成り立ち得る)。
歴史についてももう一つの観点は、歴史は連続したものか、それとも個々の現象が独立しておきるものか、といういうことに関する。トインビーやシュペングラーは歴史は繰り返すものと見る。カーは、歴史は連続したもので、繰り返さないとみる。
カーの理論はこう。自然現象は同じ事柄が同じ条件では繰り返しおきるが、しかし歴史は人間が担う。人間は過去についての記憶をもつ。過去についての記憶を持つものは、歴史について同じことをやらない。(この歴史は繰り返さないというカーの理論については、具体例を挙げて以前レスを書いたよ)。
長くなったのでこの部分は終わり。
これは メッセージ 3588 (tydkemvo さん)への返信です.
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